ふつうっぽい日記
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2011年10月07日(金) 「今日の学び」

学生時代、心理学関係の演習と教育実習の現場で、幼稚園児を対象にした子どもの行動観察をしたことがある。

大変、興味深くやり甲斐のある演習だった。
「答え」というのはなく、観察をする者としての感性のようなものが問われた様である。
幼稚園の実習先の教諭からは、「洞察力を活かして……」とコメントがあった。
とはいえ、洞察力の有無やその度合いなんてものは、主観的なものであるはずである。
たしかに、当時の私もそのようにそう受け取め、「スルー」していた。

間違っても「なるほど!私って洞察力っていうものがあるのね!知らなかった〜教えてくれて、先生、ありがとう!」なんていう気持ちはなかった。

今の精神レベルというか自己理解レベルであったらば……と、あれやこれやと想像したくなる。
行動力があったならば、教員養成系の学科から心理学系の学部なりに転学していたかもしれない。

「なにごとにも遅すぎることはない」との言葉を思い出す。
学ぶことに遅い早いはないのだ、ということにも繋がるだろう。
そして、仮に、「なるほど!私って洞察力っていうものがあるのね!知らなかった〜教えてくれて、先生、ありがとう!」なんていう気持ちでもって、行動を起こしていたとしても、「今」とは異なる具体的な経験をしていたことだろう。

したがって、歩んできた道は結果として「回り道」のように見えても、私自身が選び進んできた積み重ねであり、「時間」は平等に流れているのである。

先月だっただろうか。
学生時代の友人と語らいで、私は「私は中学の理科の先生に本当はなりたかった」と言った。
ところが、周りのあれやこれやによって「小学校」に変更したのだということも語った。

「周りのあれやこれや」は、どうも特別な状況ではなかったことと、私は今は受け入れることができている。
校内暴力等の社会問題も珍しくなかったため、支え、見守る大人としてはリスクが少ない道をアドバイスしたくなったに過ぎない、というのも今は理解できている。
私としては同次元のような事案だととらえている、例えば「遠くの国立よりも近くの私立(への私進学が助かる)」というのも気持ちは分かる。
しかしながら、「お宅は国立でいいわね。うちなんか私立だし(お金がかかって)……」という大人同士の保護者間の世間話を実際に近くで確実に自分のこととして聞かされると、「国立ならば遠い地方であれば合格の確率は無いこともないと進路指導で先生が言っていたじゃないか!」と反撃したい気持ちも素直なところであり、「時、すでに遅し」というものであり、すでに私立へ入学し、将来職業的に目指す道も照らされた現実を思えば、たかだか大人同士の会話の言葉がそうだからといって、逆ギレして退学して国立に入学し直すエネルギーなんて発動する発想はなかった。

この手の大人同士、保護者同士の独特な会話を聞き流すことはあっても直接的に関わる機会が、今の私の立場ではないということは、ある意味においては恵まれているともいえるのかもしれない。
しかし、そういった独特な場で掻き出される複雑な気持ちを通過させること、折り合いをつけていくという貴重な学びの機会は与えられないともいえる。

まぁ、同じ経験をしたとしても、学ぶ内容は人それぞれである、ということに気付けばそこにこだわり続けて日々、悩ましく過ごすことほどもったいないことはないのかもしれない。
しかし、このことも、マイナス思考であるとは限らず、「ある一つのことにこだわり続ける」と自分自身にどういう影響を与えるのかについて考える機会に恵まれるのだから、結果として「ある一つのこと」について「専門性」を高めていける道になっていることもありうる。

例えば、ある信念を持ち続けることは、当初は「怒り」といった自分自身の中に浮上したネガティブな感情がきっかけだったとしても、自分自身が癒され、結果として人に何かいい影響を与えるような働きかけに繋がっていく、ということもありうる。


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今日は少々、自分自身の中での「いつものやる気」が低迷している自覚があった。
楽しいはずの作業への集中が続かず、無気力気味だった。

しかし、私は大切なことに気付かされた。
「前の私」であれば、「何かをしないと落ち着かない。何もしないでいるという状態も、自分は何もしないということをやっているのだ、という意識を持っているのだから大丈夫!」などと、確実な不安を認めながらそれを打ち消すような守りのような考えが表に出ていたと思われた。
何もする気が起きないことへの不安はほとんど感じなかった。
上出来である。
素晴らしいことである。
今日の自分自身への演習課題の一つの「成果」だと言える。

「これが一週間とか一ヶ月とか続いたらキツイやろうなぁ」ということは想像した。
しかし、実際は、現実は、明日のことなど、また、5分後、数秒後のことだって予測不可能なのだ。「よっしゃ!動くとするか!」という気のサインをキャッチして動く、そういう日だってあるはずなのである。

現にこうやって、私は自分でパソコンを立ち上げ、自分の中にめぐってきた考えや思いを言葉を周辺機器を操って、入力しているのだ。


これでいい。


KAZU |MAIL