ふつうっぽい日記
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人間は、当たり前だが「機械」でも「パソコン」でもない。 よって、「自分システム」なんていう表現はヘンテコだ。 まぁ、「自分」を構成している心身、それも、喜怒哀楽のように「気持ちを感じるもの」としての機能を含んでそう呼んでみることにする。 まぁ、(「まぁ」が多いな、自分。)『「気持ちを感じるもの」としての機能』なんて、さらりと書いたけれどもこれもまたヘンテコな表現である。 「機能」なんて書けば、何やら一貫性があるような統一されたような法則があるようなそんなイメージを持ちそうになる。
人間のシステムである「自分システム」。 「機械」にもあるように、「エラー」「不具合」「癖」もありうる。 もしかすると、「機械」(「パソコン」)の「エラー」「不具合」「癖」には、「法則性」みたいなものがあるのかもしれない。だからこそ、「修復」も出来るのだろう。 まぁ、「自分システム」には、「バックアップシステム」というのを起動することはおそらく出来ない。もしかしたら、「未来」にはそういうことが出来るようになってしまうのかもしれないけれども、それはある意味残酷だ。
アニメやドラマ的な仮想物語の中で「不死身」「永遠の命」みたいなものを求め探す旅みたいなものが展開されることがある。
人間が死ななくなる、ということが起こりえてしまうのだとしたら、やはり私には残酷としか考えられない。
「かけがえのない命」の説明ができなくなるということである。
限りある命であればこそ、「人生」なのだ。
時々、「延命」という言葉に、ふと立ち止まることがある。 定められていたかもしれない「命」の寿命のようなもの、自然の流れのようなものに、逆らうということなのだろうか、と。 人が人として、「人間の尊厳を守る」という視点に立てば、「不自然」に映ってしまう。 しかし、技術の進歩の恩恵を受けがたかった「昔」だったゆえに「定め」であっただけで、「今」では当たり前のように「昔」の「定め」を突破されたことは「延命」とも意識されずに「自然」なものとして受け入れられていることもあるのだろう。
何ごとにおいても、と、括ってしまうのは「広い」様でいて、「狭い」「小さい」考えなのかも知れないけれども、「境目」(「ボーダー」)というのは時代の流れのようなものとともに、「自然」に「ズレて」いくものなのかもしれない。
時々、私自身の「自分システム」が思い当たる周りの人たちの「システム」とは真逆のような感覚に陥りそうになる。 まぁ、それぞれが「自分システム」を起動させているのであるから、「周りの人たちのシステム」と括ることからして、「ズレて」いるのであるが。
それでも、やはり、信頼できるのは「自分システム」なのである。 「あ、そういうことやったんか!勘違いしてたわ〜」といった、「後から分かったこと」は、後からでも「自分システム」にのっけて修正訂正加筆していけばOKなのだ、ということに気付けば、「自分システムに不具合はないか?」と毎時、毎秒、「チェック」する必要はないのだ。 それでも、例えば、「それはめんどくさいことだ(今の私にとっては)」という一つの傾向を知るためには、実際にやってみるかシミュレーションをすることは必須だ。
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「めんどくさい」という感覚のエピソード。 母と娘のやりとりである。
数年前に結婚して実家を出た娘。 母が娘の名前(旧姓)で銀行で定期貯金をしており、満期が間近であることが分かった。 満期後の手続は、本人(娘)でないと出来ない。 そこで、母が娘に電話をした。
母は 「…銀行で聞いたら本人しか出来ないんだって。テレホンバンキングサービスで手続ができるそうだから、あなた、忙しそうだし、○日が満期だからその△日前までに銀行に電話してくれたらいいから。テレホンバンキングサービスの暗証番号ってあなた分かっているんでしょう?」
娘は 「電話じゃなくて、直接窓口に行ってはダメなの? 電話なんて、めんどくさいんだけど!」
母は 「忙しいだろうから、電話だったら楽かなって考えるでしょう」
娘は 「忙しいとかってそういう前提って何なの? 思いこみで言われるときついんだけど!」
母は 「銀行は3時前に行かないといけないし、仕事を休んで行ってもらうのは申し訳ないし……。」
娘は 「あのねぇ……。アタシだって、分かれば休めるし、なんとでもなるもんだよ。 一応、仕事してても、主婦だっていうのは分かってもらえているんだから、そういうことだってあるもんだよ。」
母は 「お母さんも一緒に窓口に行きたいって話なのよ」
娘は 「……。だったら、次の展開としてはその日をいつにするかというのを決めることになるね。 ○日はどうなの?ちょうど夕方から研修があるからこの日は仕事を休ませてもらおうって思っていたから(都合がいいし。)」
母は 「○日だったら、ゲートボールサークルがある日だけど休めばいい話。じゃ、○日だね。今使っている印鑑と通帳忘れないでね。えっと…時間は〜」
娘は 「○日ってまだ、1週間以上先だから近くになってから時間は決めたらいいでしょう?」
母は 「あれ?そうか。 もう、今日が17日くらいの気持ちでいたから、焦っていたよ」
【備考、考察】 娘は○日に、銀行に出るついでに母とランチでも出来たらいいなぁと思っているのである。 もしかすると、母は「また、娘を(癇癪持ちの)怒らせてしまった……」と自分を責めているかもしれないけれども、娘としては素直に自分の感情を伝え、「今、これから何を決めるのか」について冷静に状況を把握し、促すということをやっている。 そして、母が娘の方針を受容したような流れで「ゲートボールを休めばいいだけの話」と協調しているところが「共感」しているとも読み取れ、娘の「!」での強い語尾に強調される勢いをうまく収めているともいえそうである。 さらに、母が「焦っていた」ということがはっきりとした言葉として表出され、意識化することに成功している点が、たしかな「家族の機能」のようなものを浮き出しているようにも映る。 この母と娘は、今後も、おそらくは、多少ぶつかり合うこともあると思われるが、「憎しみや恨み」に繋げないように努力しようという素直な気持ちを娘が母に伝えたということを後から報告として聞いた限りでは、明るい希望のようなものも持てるのではないかと娘の「自分システム」である「私」としては、期待したいところである。
「私」とは何者か。 「自分システム」とは何者か。 「娘」とは何者か。
簡単である。 真っ正面から見た視点、内側を外側から見ようとした視点、外側から見た視点の各種の呼び名に過ぎないのである。
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