ふつうっぽい日記
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2011年10月17日(月) |
「虫を愛でる子どもたち」 |
子どもというのは、現代という科学が進歩した環境においても、「虫」のとりこになる時期というのが平等にあるような気がする。
「街」や「都会」であっても、「ダンゴムシ」「アリ」は珍しくはないだろうと私は勝手に思うのだが。
今日、人生で初めて「アケビ」を現場で食べる機会に恵まれたのである。 外側の皮は味噌煮にしたり、肉詰めにしたりすると美味しいとのことだが、現場では中の種の周りの甘い部分だけを食べた。
結構、初めて見る「アケビ」はグロテスクだった。 指先で触ってみると、なんとも微妙な避けたい感覚。 たまたま、「クヌギ」から移動してきた「ゾウリムシ」が皮の中に入り込んでいて、「ダンゴムシ」的でもあるその存在を認めてしまって、避けたい感覚に拍車がかかっていた人たち(子どもも大人も)の気持ちは分からないでもなかった。
指導者Aさんは「虫、ダメなんです〜」と本当に嫌そうだった。
さて、私はというと、「ダメと言えばダメ」なのであるが、ここ4〜5年の経験によって、「虫を愛でる子どもたち」を信頼していさえずれば、ただただ「虫」に関わる「子ども」が頼もしくみえるばかりで「虫使い」と呼びたくもあるくらいなのである。 「虫使い」を味方にすれば「虫がいる」というのは、べつにどうってことない現実であるどころか、なんと、さすが「虫使い」、「虫」に関する知識を披露してくださるのである。 ポケットにメモ帳と鉛筆があればと後悔したこと数知れず。 まぁ、私は「子ども」と近くで関わることが幸せなのであって、「虫を愛でる子どもたち」の場合の「虫」は残念ながら、友情出演とか名脇役的役割なのである。
「虫を愛でる子どもたち」は、こういった私の姿勢は、悪くはないようで、いや、むしろ、得意になれる場に居合わせる大人として心地よいのか、「虫」を投げつけて私を困らせるという行動をする子どもには会ったことがない気がする。
何度かこの日記にも登場させた記憶のある、A君はやはり「虫を愛でる子どもたち」の一人であり、記録鷂1であり、A君の出逢いによって「虫を愛でる子どもたちを信頼していさえずれば、ただただ「虫」に関わる「子ども」が頼もしくみえる」ということを私は学ばせてもらったといえる。
A君は言った。「ボクが勉強している間、先生この虫の様子を見ていてよ(ボクの代わりに)」 「この虫」は、実に私の近くにいた。 つまりA君によって、私の腕に載せられたのだ。 私はその時、一つの線を超えたという実感があった。 A君への信頼。 A君も私の不安そうな表情に「大丈夫、コイツはケガしているから飛べない。この手の先、見て。ほら、開いたり閉じたりしているやろ?手が疲れたら、この筆箱に入れておいていいよ。でも、時々開けてやらんと息苦しくなるから、気をつけといて。」のようなアドバイスをくれたのである。
私はA君の学習支援をすることが任務であったが、A君の「虫」を支援することによって、A君は一人で学習に集中することができたのである。
こういう場合の「支援」するような時、特別な資格が必要か?と、問うと、そんなのべつにどうってことないと思えるはずである。 こういう考えや思いをこのように私が表出できるのに4〜5年かかった。 そして、その「始まり」には「特別な資格が必要か?」という問いかけを自分にしていなかったと思うが、「研修の機会は設定されないのか!(知識が欲しい!)」「私の支援はどんなものなのか?期待される支援とは何か?」と憤ったり悶々としていたので、特別な知識みたいなものが必要だと「決めつけ」ていたといえる。
「決めつけ」からの解放。
例えば、こういうようなコトなんでしょうね、「先生」。 例えば、「自己成長」とかって。
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