ふつうっぽい日記
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2011年11月24日(木) |
101回目で褒める言葉をかけられるか |
ちょっと大げさな数字です。
例えば、大人の怒りやむかつきを掻き出す言葉を子どもから100回連続で言われたとすると、もうたまりません。
まぁ、実際は100回ではなくて10〜20回程度なのですが、うをー!!となる気持ちを抑えて抑えて10回聞き流すだけでもたしかに相当なエネルギーが必要です。 そこへ、例えばその子がサラッと1回ステキな言葉、現実的な言葉、真面目な言葉を発したとしてもなかなか受け止めるセンサーを機能させることは出来ないことなのかもしれません。
「(KAZU先生に)失礼ですよ。甘えるのもいい加減にしなさい」と指導されてしまうA君。 指導者がその場から離れると耳の感度がアップした様子。
指導者は名前をフレンドリーに呼ぶ。 愛嬌なのだとは思う。
例えば「まどかさん」だったら「まどちゃん」だとか「まど」だとか「まどか」だったりする。
A君は小さくつぶやいた。 「先生、人の名前をふざけて呼ぶのは失礼だよ。マドって呼ぶのやめろ。」
ーーー
A君の今日の手遊びは折り鶴作り。 授業中にやってしまう。 彼にとっては授業の空白を埋めるための手段。 (と、私は見てしまう)
A君は静かに静かに折る。 しかし、指導者からは「これは何ですか。授業に関係ありませんよ。」としまうように言われる。 A君は納得。 「することを説明します。〜〜〜〜。」 その間、A君は指導者の説明を熱心に聞くが指導者が離れた直後、椅子からずるっと身体が流れ落ちてしまった。 「すること」の内容は物語を作ることである。
こういうことは、好きな人と苦手な人にわりとはっきりと分かれるのではないだろうか。
ファンタジーが好きで読書も好きな子にとっては、簡単にこなせる作業かもしれない。 ただ、空想が上手でもそれを文字にする、という段階でつまずくということはありえる。 そして、「気持ちを表す言葉やカギ括弧を使った言葉も入れなさい」などと言われるとまた違うと思われる。
小説とかドラマとか物語を登場人物を自分で把握しながら読んだり見たりすることがとても苦手な子もいる。
一応、物語の枠(手順)は決められている。
男の子と女の子が登場人物。 2人の名前と性格を決める。 「宝の地図」を見つけて、動物と闘って、何か変化があって、最後の場面と繋げる。 教科書には「宝の地図」が載っている。 いくつか宝に到達するまでの道が選べるようになっていて、それぞれの道には「動物」が道をふさいでいる。
空想好きな子は、この「宝の地図」を見ながら、どんどん話が膨らんでいくだろうと思われた。
A君は2人の名前を決めるところから現実的になったりアニメ的になったり苦戦。 「自由にA君が決めていいんだよ」という「自由」はA君を悩ませる。
指導者は物語を作るステップの確認をA君に説明して「できるはず」と希望を抱く。
「こんな授業はいったい何のためになるのか」 何度かA君はこの言葉を放った。 私はその言葉を何度か拾っている。
ーーー 手遊び折り鶴の話。
きっかけは私の名札の裏の折り鶴だった。
何日か前、A君は折り鶴を破った。 私は「その折り鶴は先生のお守りなんだけど……。破ってもいいよ。君が幸せになるんだったら……。」などと返した。
A君も良心が痛んだのだろう。 たまたま算数の時間に使った折り紙で鶴を折ることに挑戦した。 「先生、教えて」と言われて教えた。 「自分でやりたい」と多くを私がすることを嫌がった。 授業中だった。
「ボクはこういうことは本当は苦手だ。折り紙なんて。細かい作業が苦手だ。」
そう言って、A君なりに頑張って作ってくれた。 それを私は名札の裏に大切にしまった。
そして、今日、私の名札をA君は「貸して」と言って、前代未聞の行動に。 私の名前に、線を引いて、A君の名前を書いた。 得意げに笑う。 まぁ鉛筆だったので事なきをえたが。
その時、折り鶴に気付く。 そして、その折り鶴を破れないように崩そうとした。 「破れないように手伝って」とA君。 手伝う私。 「練習する」と言ってA君は折り目がついている紙で折り鶴を作る。 「あれ?どうやったっけ?」と、つぶやいた時だけヒントを出す。 完成して、また、崩した。 今度は私の手を借りずに器用に広げる(壊す)ことができた。 「上手に壊せたね」と認めた。 そして、再び折り目がついている紙で折り鶴を作った。 「折り紙、苦手なんでしょう?」とA君に尋ねた。
A君は言った。 「苦手なことでも少しずつ練習をしたら出来るようになる。」
そのことをA君は証明した。 いや、行動によって、言葉にすることができたのか。
次にA君は「この鶴は1人じゃ可愛そうだから、もう一つ作りたい」と言った。 私は少し困って間を作った。
A君は言った。 「先生は一人がいいの?一人だったら寂しいからさ。だから、こいつのためにもう一つ作りたいんだよ。お願い、折り紙ちょうだい。」
私は言った。 「折り紙は持ってない。」
するとA君はノートを破って、頭を使って正方形を作ることに成功して、ハサミで不要な部分を切り落とし、鶴を作ることを頑張った。
その時である。 正方形以外のノートの切れっ端とハサミが指導者の目について、注意を受ける。 A君は折り鶴を守ることに必死である。 折りかけの正方形にも注意を受ける。 「それは何ですか。授業に関係あるものですか。」 その正方形もA君は守った。
説教の時間が過ぎて、後ろをふり返った。 まるで「さっきの続きをしよう」と言っているかのように私に目を合わせてくる。 とても無邪気な表情である。 A君よ、お説教されたばかりじゃないか。 A君は指導者や説教のひとときに慣れているのだ。
私はなるべく距離を置くことを頑張った。 A君は静かに静かに自分が切り抜いた正方形で鶴を折っていた。 とても集中していた。 授業にはまったく集中できていないが。
ーーーー
職員室では「A君が(前みたいな状態に)戻った。」と何人かの指導者が呆れたように言っていた。 その言葉はゆるやかに私の頭上を旋回する。
私はA君の「前みたいな」状態については知らない。 積極的に知ろうとは思っていない。
私はA君の「今」をしっかり見つめている。 私を挑発するような言葉には慣れつつある。 適度にかわして、真剣に答える努力も有意義に思えている。 そして、私にとってのA君の「前」と「今」を比べて、ささやかな成長や改善を認めた時、A君にそのことを伝えている。
「前みたいな」状態に「戻った」とは、同じ手立てや手段が使えないということだ。 関わる者のこれからが試される。 つまり、A君は確実に「進化」(成長)したということである。
ーーーー
A君がふざけて私に足を載せてきた。 なんとも生意気な失礼なガキである(A君よ、許せ) 私は淡々と、しかし、大胆にA君の足を振り払った。 その姿は「KAZU先生がA君の嫌がることをやっている(厳しく叱っている)」とも見えたかもしれない。 実際、B君が「A君を助けに来たぜ!」などと言って、B君は私を少し睨んだ。 しかし、A君は「すげー今の見た?もう一回やって〜」などと言うではないか。 振り払われた足の動きがA君の中で素晴らしい軌跡を描いたらしく、なんとA君は感動に浸っていたのである。
愛すべきA君なのである。
そしてA君は賢い。 そしてA君は繊細である。
A君は言った。
「ボクは自分を自分でコントロールすることが出来ないんだよ。家でもずっとふざけているからお父さんに怒られる(殴られる)。どうぜ、ボクは算数の問題も2問くらいしか出来ないんだ。先生、ボクって、羨ましいでしょう?2問しかできないんだから。2問しかしなくてもいいんだから。」
私はA君に言いたくなった。
頑張らなくていいよ。 先生が賢いふざけ方を教えてあげよう。
こんな感じで日々、同じ一日などなく、退屈な日はない。 「してあげている」と言える日なんてない。
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