ふつうっぽい日記
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2011年11月28日(月) |
繋げないための繋ぎのために |
よく分からないことに関して、深く思い悩むことほどムダなことはないのかもしれない。 それが冷静になることを忘れて、爆走してしまうと、厄介な状態になる。 しかし、よく分からないからこそ、ひとまずの形でそれらを繋いで、「こちら側」から「あちら側」に放出しておくことは、もしかすると意味があるのかもしれない。
よく分からないことは、たしかな事実ではない。 たしかな事実ではない点を線で結んだとしたら、それは虚構に近いのかもしれない。
今日はこのように抽象的な言葉にして、脳内整理をしておくことにする。
あるところで、聴いた話。
「朝方、痙攣発作を起こしたらしい」
けいれん。 本当にそれが、深刻な病態なのかはまったく分からない。 さらに、「らしい」であるため、深刻さはまったく不明である。
「痙攣」といっても、ある部位、たとえば「こむらがえり」であるとか「瞼のけいれん」であるかもしれないし、白目をむいて全身が痙攣したことを指しているのかも知れない。
まったく、不明である。 それを明らかにする立場でもない。
それだけであれば、これほど、繋げようとする気持ちは持たなかっただろう。
その「けいれん」を起こしたという、仮にAさん。
私はAさんと先週関わっていた。
私は対人援助的支援のようなことをやっているが、「担当」ではなかった。 30人ほどの人数がいるなかでの支援であるため、担当ではない人と関わることも珍しくはない。
「担当」として関わる場合、あらかじめ少しであっても「情報」共有した上で支援は進んで行く。 だいたい、「担当」以外の30人ほどの人も、なんとなく「担当」を主に支援するために見守っているのだな、ということは分かっているような感じである。
であるが、「担当」以外の人たちも、ある意味「支援」を求めている側なのである。 「担当」か、そうではないかの基準は実のところ、曖昧なのである。
それはどういう意味かというと、必要な支援を受ける場合、著しい行動が気がかりである実態を諸機関に報告するのであるが、報告時と「今」とでは、変容しているものである。
気がかり具合のみに着目するならば、昨日はBさんであったが、「今」はCさんであり、明日はDさんかもしれないのである。
気がかりな行動をある一人がずっとやり続けるということは、まぁ、ないものである。
しかしながら、「担当」(対象)として決められている限りは、その「担当」を主とした関わりになるものである。
Aさんが気がかりな状態(けいれんを起こした)であるらしいこと。 私としては逆算的に、巻き戻し的にAさんとの関わりをふり返ってしまうのである。 先週。 図形のプリントをしていたAさんの様子をちょくちょく見ていたのである。 その時間は自習だった。
「長方形は青色、正方形は赤色、直角三角形は黄色に塗りましょう」 こんな問題だった。 Aさんは色鉛筆にない色があるので、どうしたらいいかと頼ってきた。 「似たような色を使えばいいと思う」と助言した。
Aさんは「青色」を「紫色」、「赤色」を「ピンク色」、「黄色」は「黄色」で塗ることになり、私は、分かりやすく問題文に使う色で印をグリグリとつけてやった。
「担当」はAさんではない。 「担当」は、Bさんであった。 Bさんは見たところ、課題の意味が分かると自分で自分のペースで進められる様子であり、Aさんよりも2,3ページ先に進んでいたので遠くから見守っていたのである。
その図形の色塗り問題は2問あった。 1問目、Aさんが言った。 「違う色を塗ってしまった!紫で塗るところを黄色で塗ってしまった!」 それに対しては黄色の上から紫色で塗り重ねればいいことを助言した。
2問目、Aさんが言った。 「ああ、バカだわ。また、違う色を塗ってしまった……。」
集中が散漫であったという説明もつくだろう。 そして、自分のやってしまった間違いをすぐに自分で気付くことができたということは重要ともいえる。
そして、学力全般的に、理解が偏っている、理解するのに時間がかかる、という傾向もあるように感じられることも多いように思われたので、気にするような状況ではないともいえそうな気もしてくる。
ただ、私のAさんとの関わりでのふり返りが、その場面であったために、結びつけたくなってしまっただけに過ぎない。
と、繋ぎたいのである。
Aさんは「けいれんを起こした」というその日の、昼前に念のため検査を受けることになり、迎えに来られた親族に誘導される形で、荷物もそのままに施設を後にしたのである。 週の始まりということも関係していたかもしれない。 医療的な検査諸機関も混んでいたであろう。 私は3時までの勤務であるが、私が退出するまでAさんの荷物は残されていた。 迎えに来られた親族にAさんが気付いた時、Aさんの目が少し潤んでいたようにも映った。 これもまた、そう見えたに過ぎないともいえる。
悲観的な線で結ぶと、切実な病態になってしまう。 切実な病態の「症状」は、どこで現れてもおかしくない。 それを「症状」として分かる人が専門家なのだろう。
「脳の損傷」に心当たりがあると、「そういった症状」(例えば「けいれん」)が現れてもおかしくない、というのは「ふつう」でもなんとなく結びつけたくなることだと思う。 それでも、「そういった症状」が気がかりになっていけば、可能性がかってに広がっていくと、原因を結びつけたくなってしまう。さがしたくなってしまうものである。
ましてや、「そういった症状」の主体が未成年であれば、保護者が気がかりに思うのは当たり前なことだともいえるかもしれない。
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時に、例えば、いきすぎた「しつけ」によって、虐待に繋がり、「脳の損傷」が原因で、死に至ったという話を耳にする。
「ぐったりしたので、救急車を呼んだが、すでに手遅れだった」
「脳の損傷」状態である、というその時の流れ、意識が分からないものなのか。
「脳」を包む「頭部」への「強い力」は、「脳」に「損傷」を与えることがありうる、ということが繋がらないのか。
「強い力」とは、人による暴力とは限らない。 どこかに激しく頭をぶつけてしまうこともあてはまる。
時にこんなことも耳にする。 「少し叩いただけ」 子どもにとっての強さ、弱さと大人のそれとは違うものである。 そして、物が当たった痛みと、信頼していたはずの親からの思わぬ打撃とでは、ダメージの度合いも違うものである。
「頭」には「脳」という全身をつかさどる重要な働きをする機能が詰まっていることが、分からないこともありうるのだろうか。
思えば、小学校の時。 5年生の時の担任が「脳」の話を図解して分かりやすく話してくれたことがあった。 図解といっても、「脳」そのものの形ではない。 「記憶」をテーマにした話だった。 いろいろな引き出しがある、といったような内容だったと思う。
心はどこにあるか? これは、なかなか難しいが、「脳」の場所は分かっているのであるから、「脳」がどんな仕事をしているのか、というのを授業の「脱線」であっても語っておくことは意味があるだろう。
いや、授業とは違う「脱線」「余談」だからこそ、長期記憶として残るのかもしれない。
「脱線」「余談」 何を語りますか、先生。
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