ふつうっぽい日記
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2011年12月03日(土) |
「増員」計画に寄せる思い |
例えば「支援員を増員する計画」と聞くと、「ああ、予算が充てられたのだな」と嬉しく思えてくる……。 でも、ただ人をつければそれで、ただ人の配置が進めば、その事業は向上、成功していっているのかというと、非常に疑問だ。
まだ、募集定員30名とか40名だったころ。 希望する施設が60以上あるという実態を知ると、「とにかく定員を増やしてほしい」と単純に思いたくなった。
でも、である。 配置されている一個人が、本来の目的で任務にあたっていると自覚できているのか、目的を持てて機能しているのかというのが見えない。
「本来の流れであれば、校内委員会から具体策が下りてきて、そこで初めて支援員は動くものである」といったことを事業主から聞いた。
本来の流れは、具体策まで練り上げることができている施設が、人材を任用できるということになるのかな、と思われる。
思われる。
思われる……。
「校内委員会」という存在すら、見えない状況。
「子どもに約束させてみてはいかがですか?」と、ある日の「報告書」に管理職からコメントがついた。 これが、「具体策」なのか? であるとすると、支援員とのやりとりで「具体策」とやらが打ち出されるということになる。
また、支援員の辞令を受けたとき、所属長から「どうかお力をお貸しください」的な言葉をかけられた。
まぁ、「支援する」ということを「力をお貸しする」と置き換えたとして、その方向性、計画は、組織で練られているものと思うのは間違った思い込みではないと考える。
しかし、なんだか、「この状況です。どうか、よろしくお願いします。」と委託されているような感じが否めないということが、意識化されてきてしまった。
例えば「巡回相談」という専門家で構成されたチームの介入であれば、それが「ふつう」だと想像する。
一度実施された事業主主催による「研修」では、各支援員の困っていること等を発言する機会があった。事業主によると、その発言内容は「本来の流れであれば、校内委員会から具体策が下りてきて、そこで初めて支援員は動くものである」ので、支援員が抱える課題ではない、との返答だった。
この事業としては4年目である。 毎年、支援員は「増員」されている。 配置の数字だけみれば、事業が順調に進められている感覚を持ってしまう。
「人材育成」の内容までは、数字からは見えない。
そして、人材を採用して受け入れるのは事業主ではなく、施設毎である。
自治体によっては、規定の事前「研修」を受講して修了した者が人材として登録でき、現場に入ってからのアフターフォローも「研修」に位置づけられているという「仕組み」がある。
私が登録をしている自治体の「仕組み」には、事前研修もアプターフォロー研修というようなものはいっさい無い。
施設の裁量と言えば、「上」からの押しつけがなく、自由度が高いともいえるが、人材として動く側は施設に依存するしかないようなところもある。
支援が必要な対象が「発達障害のある児童生徒」に限定されているので、ある程度のその領域の知識があること、知識を向上させていこうとする態度は前提にはなっているとは思う。
しかし、どういう障害なのかという具体的なものは語られない。 たしかに、診断名に依存して「○○障害のAさん」という枠を設けられて関わられるのは、対応が狭くなるような気もする。 「○○障害という特性をもつAさん」「○○障害といってもそれぞれ違う」障害の有無を超えて、「人はそれぞれ違うのだ」。どれも、意味は分かる。
でも、対象児童としてその対象のために機能する「外部からの人材」を新たに位置づける、配置するのであるから理由の共通理解は最低限だろうと思うのである。 しかしながら、実際、「外部からの人材」として現場に入ると、対象児童との距離感に戸惑う。 それ以前に、その施設に行くこと、それだけでも違和感を通過させなければならないのだ。 その施設の大人たち。施設の職員の「外部からの人材」への認知、認識、存在理由のようなものの理解。 一個人との人間関係という意味ではなく、その組織でどういった位置づけで機能する人材なのか、ということ。
こう、強引に考えたこともあった。 「外部からの人材」それは、「愛のある通行人」。 通行人は主張はしない。 ただ、通り過ぎるだけである。 「愛のある」つまり、「特別な思いをこめて」。
こう、考えたこともあった。 施設には多くの大人がいる。 それぞれが「外部からの人材」が関わる対象児童生徒へ「愛のある通行人」である意識を持てば、「外部からの人材」の必要はないのではないか。
例えば、休み時間、掃除時間、給食時間。 多くの大人が、「愛のある通行人」として対象児童生徒へ関わる。 対象児童生徒の持つ、自尊心は向上されていくだろう。
ただ、「Aさん、おはよう」と担任以外の大人から声をかけられる、ただそれだけで、自分の存在価値の揺らぎは減っていくだろう。
そう、私自身、「外部からの人材」として、「支援員さん、おはようございます」、「いつも、子どもたちの見守り、ありがとうございます」とただ声をかけていただくことで幸せなように。
「○○障害という特性をもつAさん」とコミュニケーションを取るためには、特別な資格はいらない。
ただ、「コミュニケーションを取る」。 ただ、これだけのことではある。 しかし、これがなかなか、苦悩するのが「こちら側」なのである。 「やればできるじゃない」 「どうしてそんなこと(暴言暴力)をするの」 と、言いたくなる感情を刺激される。 通過する。
そう、通過させるものなのである。 ただ、通過させていけばいいのである。 でも、「こちら側」としては自分の刺激された感情のやり場に、処理に、苦戦する。 感情に任せて「怒り」「叱り」したとしても、「あちら側」は、その感情を抱えてはくれない。 通過させてはくれない。 まるでその感情が存在しないかのように、ただただ透明な輪っかのようにその場に漂うだけで、「こちら側」に戻ってきている……ような気がしてくる。
そうこうした、あれやこれやの「期間」。 それも限定された「期間」。
その限られた「期間」で何かを変えたくなるのも、「外部からの人材」が通過させる思いなのではないかと思う。
私も、そうだった。 継続支援にこだわり、施設を選べるという立場にありながら、同じ施設を選び続け、可能ならば対象児童生徒も限定して継続して支援したいと強く思っていた。 担任は変わる。 でも、寄り添う支援者は変わらないのならば、対象児童生徒は落ち着くのではないか、という根拠のない確信のようなものがあった。
実際は、支援員がつく対象児童生徒は一名なのである。 支援員配置を検討する時期について、私は詳細を知り得ないが年度末、3月に来年度の支援体制の大枠が決まるとかいう話をなんとなく聞いたこともある。でも、定かではない。 支援員の募集は5月頃である。
私は可能な限り、同じ施設に応募し続けようと思い、昨年を除き、実際そのようにしてきた。 実際、対象児童生徒は毎回違っているのが実態である。
支援員配置希望を叶えるための施設側の策も、いろいろあるのだろうな、と思う。
しかし、思う。 気がかりな児童生徒の存在に施設側が困っているから、「お力をお貸しください」という願いが強いのではないか。 気がかりな児童生徒本人が困っているので、その困り感に寄り添う人材が必要です、であってほしい。さらに、その児童生徒の保護者も同じ思いであること。
学期末も近づく。 「自己評価」をする時期にもさしかかっているのだとは思う。 けれども、組織内での「仕組み」が機能しているのが見えない立場としては、組織が掲げる評価内容を提示されても、それをもとに反省することは厳しい。 せめて、その評価内容を任用始めに「目標」として周知していただいていれば、いち「過程」を、「通過」させる関わりの時間を、「目標」に到達するためだと位置づけることができただろう。
私にできることは、何か。 自問自答は、続くのである。
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