ふつうっぽい日記
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2011年12月13日(火) |
「待つ」ことの大切さ |
「先生と、朝、話をする時間を取るようにしようね」と、指導者が提案した。 素晴らしい提案だと思った。 そのとき、その言葉を聞いていた子どもは泣いていた。 かなり切実だったと思われる。
「もう、ボク、破れたって平気って感じ!」 図工の作業である。 指導者から認められたこと、自分の気持ちが寄り添われたことへの満足から、こう少し大きな声でつぶやいたのを私はたしかに聞いた。
それは、昨日から始められたはずである。 私は昨日は現場には入らなかった。
今日現場に入ったわけだけれど、「朝もちゃんと話を聞くからって言っているのに……」との、つぶやきが何気に耳に入る。 声の主は、先日の頼もしい指導者だった。
結果を急いでいるなと思った。 まだ、その取り組みは始まったばかりのはずである。 であるのに、「こちら側」の要求が満たされないことに立ち止まりたくなったのだろう。
毎日、子どもたちは成長している。 一日、一日、違う。
それはある面から、ある点から見ると「ワガママ」に映ることもたしかにありえるかもしれない。
「ワガママばかりにつきあってはいられない」
いろんな「ワガママ」を束ねたくなる。 それも分かる。
何かしらの共通してそうな要素を括りたくなる。 分類したくなる。 括ってから、ある一つの方法でもって、エイッと状況を変えたいような気持ちにもなる。 これも分かる。
落ち着きのない子どもたち、いや、大人であっても、そういった傾向がある場合は、とにかく違った刺激を求めているのだ。 したがって、飽きっぽい。 どんどん注意が動く、関心の対象が動く。 その動きを、支える人間はどうにか自分の楽に理解できる方法で、エネルギーを消耗しない方法で収められないかと試行錯誤してしまう。 やっと、辻褄があうような方法でもって行動に繋がったとき、やり甲斐のようなものを感じる。 そして、その方法ができれば長く続けばいいなと願ってしまう。
ツボを見つけたような気持ちになる。
しかし、やはり、どんどん注意が動く、関心の対象が動くという点では彼らの中では一貫性があることに気づかされるのだ。
その繰り返しと言ってしまえば、単調っぽいが、実際は違う。
関わりながら、支える人間の考え方や気持ちも「発達」しているのだ。 広がっているのだ。 その広がりが、心地よいものに換わっていくと、あれやこれやの試行錯誤も心地よくなる。 愛すべき、試行錯誤の対象になっていく。
「待つ」ことは大切だ。 一日やそこらで、芽が出るとは限らない。 丁寧に関われば、先の成長、例え緩やかで見通しがなかなか持ちにくい状態であっても、楽しみになるはずである。
そう、期待して、明日を迎えたい。
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