ふつうっぽい日記
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2011年12月26日(月) |
友達への近況を伝える手紙 |
今年はかつてないくらい早めに年賀状を完成させ、ゆとりをもってポストへ投函。
年賀状欠礼ハガキをいただいた方には、年末年始の隙間時間に寄せる思いなどをお便りしたいなと思っている。
今日一人の友達に手紙を送った。
その友達は、今年の秋、実の弟さんを亡くした。 学生時代の友人で、弟さんの姿を一度見かけたことがある。 弟さんとは8歳の年の差であった。
学生時代、私は演劇のサークルに入っていた。 大学の小さなホールでの公演に彼女のお母様や妹さん、弟さんが足を運んでくださったのである。 そうだ。 その時は、我が両親も来ていたっけ。 いや、母だけだったのかな。
その時の公演のタイトルは何だったのだろう。
彼女が母親で私が子役だったあの芝居だったのか、それとも……。
卒業して、あと数年すると20年も経つことになるのだから、曖昧な記憶であったもおかしくはない。こうであるからこそ、共通する思い出である友との再会というのは記憶が修正される機会にもなるので有意義なのであろう。
31歳で他界された弟さん。 とても若い。 そして、姉としてはその近しい親族の突然の知らせは現実が大きく揺らいだだろうと思われた。 奇しくも、それに近い日、私たち学生時代の友人は集まろうと、それもまだ新婚である彼女の自宅に押し掛けようと企んでいたのだった。
「ごめん。参加できません。」
当たり前である。
でも、この返事をするのがいっぱいいっぱいであることは少ない行間から伝わった。 彼女は集まりの会場が自宅であったことや、少々遠方から参加する数人の友人を自宅に宿泊してもらう準備もしていたため、非常に恐縮していた。 私と彼女の自宅は同じ区内であるということもあり、私がとりまとめ役のような立場になった。 私から知らされる友人からは、「どなたが亡くなったのだろう。近しい人ならば、お参りに行きたい」という反応もあったが、その時の私には、ただ待つということしか出来なかった。
もしかすると、ご両親だとか祖父母という関係にあれば、少々冷静にそのことを淡々とでも伝えることを彼女から出来たのかもしれない。
彼女の気持ちをただただ配慮することしか出来ず、「その先」について尋ねることは私には出来なかった。
その時は。
例えば、大学に進学した理由とか、家族のこととか、何となくは分かっていても、本当にそれは何となくであり詳しいことは知らなかったりするものだと思った。 私自身、自分の家族のことや家族への思いを友人に自分の心の内を吐露することはあるときまでほとんどなかった。 その理由は、自分自身と対話する意味、その意義を知らなかったからだ。
今でこそ、「自分自身を知る」ために日々行動しているとか公言しているけれども、その視点さえも持っていなかった。 その視点「自分自身を知る」ということを持てるようになったのは、「きっかけ」があったからである。 その「きっかけ」に関しては、言葉をかえ表現をかえ文章にして物語ってきている。
物語るということの意味も、学ぶことになった。
私は彼女への手紙にこのようなことを書いた。
「自分っぽさ+α(アルファ「何か」)」で、なんとか「自分」をやっているのだ、と。 前日の心当たりのある自分、7割くらいで統一感を持たせて繋げて過ごしているのだ、と。 よって、9割くらい(とても自己中心的)であったり、3割くらい(自分が離れている)であったりすることは、ありうることなのだ、と。
一日一日、同じようなことをやっていても、どれとして同じ一日なんていうものはなく、気持ちに流れる思い、想い、考えも変わるものだ、と。
そして、あるとき、突然、とりあえず閉めていたはずの「蓋」が思いがけず開いてしまうということもあって、その時は、その「蓋」を閉めるための物語を自分で作っていいのだ、とも。
もしも、また違う場面で似たような状況になったら、私は、気持ちを配慮することをして、「その先」について尋ねることをやりたいと思う。「その先」での「その先」のその人の近くに寄り添う行動を起こしたい。
今回、「その先」について尋ねることができなかったことについて後悔はしない。
ーー
イトコのお父さんが亡くなったとき。 私は遠方に住んでいる、という理由で葬儀には参列しなかった。 我が両親は、「あんたに任せる」と伝えてきたが、私は何度も些細なことで両親に頼る言葉を伝えた。結局、電報を送っただけだったが、それだけでも、どうしたらいいのかの戸惑いがあった。 それほどに、私にとって、誰かを弔うこと、誰かの葬儀に参加する、ということは遠いことだった。
両親としては「常識」だと思っているだろう。
昔の人は、大家族の中では、そういった「常識」を具体的な体験でもって取り込んでいけたのだと思う。
今更だが、遠方に住んでいるといっても、同じ日本である。 新幹線で3、4時間で移動できる距離だった。
私は「世間」に対して甘かったのである。
ーーーー
ルビー婚式の両親。 何ができるだろう。 何をしたいだろう。
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