ふつうっぽい日記
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新しい月になった。 1月になった。 そして、まぁ、新しい年を迎えた、とも言う。
新しい年が来ることが、おめでたいかというと実のところ微妙な気がする。
過ぎたことを引きずらないこと、などという言葉も分かる。
まぁ、しかし、ほどよく「バーッと」過ぎたことを自分に通過させることで、過ぎたての頃ともいうべき、その当時の思いや考えとは違った意識や感じ方のようなものを心地よく誕生させることにもなるので、過ぎたことの何もかもを否定的に悲観的に忘れようとか引きずらないようにしようとか努力することを頑張らなくてもいい気もしてくる。 なるほど、新しい年ということは、「開けてくる」きっかけに繋がることもあるのだ、ということなのかもしれない。
苦しいようなネガティブな思いのようなものであっても、その意識誕生は結果として意味のあることだと思えば、その始まりが新しい年を迎えることと結びつけるのならば、「おめでたい」ことともいえるのか。
まぁ、しかし、書面で文字で「おめでとう」という言葉を表現できたとしても、なかなか、わざわざと玄関の扉を叩いて、「おめでとう」と言いに出向くという行動は、そのふさわしいとされる、「らしい」期間に実行できるとは限らない。
喪中ハガキを出す具体的な理由はないけれども、なんだろう、今回の年末年始はささやかに、出来れば「ふつう」に近いような日常リズムで一日、一日をただ過ごしていけることの感謝を実感したい意識の流れのようなものがあった。
初売りや福袋やら、「らしい」要素みたいなものは身近にはあったけれども、「バーゲンだ」と言い聞かせることも容易な気がした。
もしかすると、例えば、子どもの一人でもいれば、「おめでとう」の挨拶を出向くことも、「わざわざ」なんて気持ちが浮上せずに自然にそうした行動を起こせたのかもしれない。
なんだかんだいって、結局はこれらのことは言い訳と変換されても仕方のないことなのだろう。
さて、カレンダー(的なものも含めて)がいくつあるだろう、とふと思った。 そのきっかけは、日めくりカレンダーを自室に設置したことによる。 今日、「あ。」と思い、3枚めくった。 つまり、めくられていなかったという訳である。
昔、「居間」に存在感のある日めくりカレンダーが設置されていたものだ。 その紙の厚さは薄かった記憶である。 大きさはB5くらいあったような気がする。 それをめくるのは、世帯主の役割だった。 めくられていなかったという記憶はない。
トイレには毎日の言葉が書かれたカレンダー的なものを掛けている。 寝室には2ヶ月単位の沖縄の景色が書かれたカレンダー、リビングには猫のイラスト入りの一ヶ月単位のもの、夫の書斎には新聞屋からポストに投入されていたもの。 リビングには少し離れた棚の上に卓上カレンダーも置いてある。 手帳は大きめの厚めの家族用、私用のカラフルな薄めなスケジュール帳、そして、いつから使ってもOKなビジネス的な手帳がある。ビジネス的な手帳は、読み物の要素も含んであるので、実質は来年あたりから使うことになると思われる。 家族用の大きめ厚めの手帳には、一日の大まかな食事内容を書くことにしている。 去年までは、食事内容を書くための手帳が別にあった。 まぁ、この記載もかなり適当に書く日もあれば、まとめて書く日もあれば、潔く、無関係な絵を描いて空白を埋めるという日もあった。
出来るビジネスマンは……(なんとかかんとか)、手帳で人生が……(なんとかかんとか)等の文字を本屋で見かけることもある。 「そうだなぁ」「へぇ」とか肯定的にそれらのテーマの本を有意義に立ち読みをすることもある。
でも時々思ってしまう。 いつまで保管、保存していくものか。 どうなっていくのか。
しかし、これだけは言えそうである。
畏れること、なかれ。
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