ふつうっぽい日記
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2012年02月01日(水) |
私を束ねないでください |
新川和江さんの詩を思い出すようなちょっとしたことが私の中を通過した。
「私を束ねないで」と検索したくなって、いくつかヒットしたサイトから一つのブログに漂着してみた。
ざっとしか内容を見ていないが、有意味な自問自答をされてある方で、ささやかに学ばせていただけた。その方自身も、言葉を紡ぐ中で「学び」や「気づき」に繋がっていったことに「感謝、感謝」でまとめてあって、読んでいた私も「感謝」の気持ちで「ちょっとしたこと」が括られたような、束ねることができたような、爽快感があった。
どうも、他者から縛られるのは、束ねられるのは「ヨシ」としないが、自分自身で「束ねる」ということは「ヨシ」な感じである。
「感謝、感謝」でまとめた方と、私の中での「ちょっとしたこと」に流れる気持ちの仕組みが似ていた。
その方は「電話」でのやりとりが通過させるべき事案だった様子だが、私はメールだった。
後味のようなものが似ていた。 その方は、眠れなかったとあったが私はそこまでではなかった。 ただ、仕組み的なものは似ていた。
大人になっても、自分自身の中には子ども(チャイルド)がいる、ゆっくり育つ部分がある。ということは、想像できてしまう。 「インナーチャイルド」と呼ばれるものだろうか。 詳細は調べていない。 仮にそういうものがあるとして考えると腑に落ちる、ただそれだけかもしれない。しかし、日々をとりあえず、昨日までと同じ個人として、まとめあげていく工程ではそういったものは何気に支えになっているのかもしれない。
「後味の悪さ」「申し訳なさ」「前言撤回したくなるような気持ち」 「昨日送ったメールへの削除したい思い」 こんな、仕組みが機能しようとウズウズしていたらしい。
そのきっかけは、 「返事をしようと思ったのですが、ネガティブになりそうなので、今日はやめておきます。また、近々。」 という返信だった。 正確には上記のようなメッセージに加えて3行ほど文章があった。
文章は短いけれども、「返事」「返信」には変わりがない。
しかし、冷静になれば、ありのままの気持ちがただ文字として書かれてあるだけであることに気付く。
「返事をしたい」というゆるぎない信頼を保ちたい思いを伝える気持ち、「ネガティブ」にならないようなメッセージを書きたいというどちらかというとプラスな、ポジティブな気持ちになるような言葉を綴りたい、綴れるはずだ、という自分自身への期待。
私は、「ゆっくりでいいですよ」とか「ネガティブになってもOKですよ」「気にしないでくださいね」的なメッセージを送りたい衝動が走った。
「前」の私だったら、行動を起こしていただろう。
「感謝、感謝」でまとめた方の仕組みによれば、返信をさせるに導いた、過去の私自身の紡いだ言葉には、悪気はないはずである、ということだ。悪気どころか、自分自身を整えたであろう心地よさが詰まっていたはずである。 その言葉によって、それに触れた自分以外の他者がなんだかの感情があふれるというのはありえることで、であるからして、前もって予言的に特別な配慮をする必要は浮かばなかったはずである。
仮に 「あなたからのメッセージを見て、過去の辛い思い出を思い出して泣きたくなりました」 と、伝えてきたとしても、 「辛い思い出を思い出させるようなメッセージを送ってしまって、ごめんね」 という切り返しはどうだろうか。
「ごめんね」 という、謝罪をしたくなる感情は「私」の内なる子どもが「私」に救済を求めている叫びのようなものだとすれば、それに答えるのは、抱きしめるに値するのは何か、と考えてみると、他ならぬ「私」ではないのか。
さらに、こういった「叫びは自分自身へのメッセージだ」という「仕組み」を理解させようと、他者に伝えようと努力することに頑張らなくてもいいのである。
たしかに、「昨日」の自分自身は、「今日」の自分自身と連続しているものではある。 しかし、流れている気持ちの「仕組み」は、すでに確実な過去のものであり、その「仕組み」を詳細に「今」たどろうとしたところで、詳細な「明日」の「仕組み」を予測することはできないし、したくないものである。
感情の「仕組み」、感情の波を、スケジュール帳に書いて、その通りに実行するなんていう発想は、なんと狭いことだろう。
そう、明日は、ちゃんと明日の風が吹くようにできているのだ。 そういって、一日を締めくくってきた日もあったじゃないか。
明日は明日の、喜びや辛さがちゃんと待っているのだ。 だから、今日は今日で終わらせられるように。
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