ふつうっぽい日記
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2012年02月03日(金) 後回しの一つの行く末

「私のことはいいの!」

「私のことは私の問題だから(放っておいて)!」


何度かこの台詞は何かの場面で言った経験があることは珍しくはないだろう。

たとえば、「母親」という役割があれば、子どもを第一にしたいという思いのあまり、視点をずらすときに使うのではないだろうか。


「他人の世話はいいから、自分のことをちゃんとしなさい!」
これも応用編的かもしれない。

この台詞は「自分のことは後回し」劇場の開幕なのである。
どのような行く末が待っているのだろう。

母親というのは、こういった台詞を「眉間にシワを寄せて」、実に感情をこめて放出する。

まぁ、眉間にシワを刻む母親(女性)がいる限り、美容業界は安泰かもしれない。
これは余談である。

母親のこういった台詞を言い放たれてしまう他者に視点を置こう。
他者、それは子どもである。
職業として大きな声を出して指導にあたるのでなければ、おおかたそれは「他者ではなく実の(私が産んだ)子」なのかなと思うが。
言葉尻をあえてつかもう。
「他者ではなく実の(私が産んだ)子」「我が子はよその子ではない」「他者とはよその子」

親子であっても「他者」なのである。
自分以外の人間なのである。
別の人格を持った他者なのである。

しかし、親子の「親」と「子」の間には他者同士とはまた違う人間関係の仕組みがあるのだ、と考えるとなんだかしっくりくる。

たとえばその仕組みを説明するキーワードとして「愛着」や「依存」があるのかなと思う。
具体的は説には触れない。
「愛着」という絆は育まれていくものらしい。

では、「依存」はどうだろう。
月日を重ねるにつれて、「育まれて」いくのだとしたら、これは困ったことになる。
成長は「依存」の進行か。
そんなことはない。
人間は誰しも依存無しには生きられない生き物であるという時の「依存」ではない場合、つまり、それが継続したら「病的」に映るような「依存」は、「ふつう」成長するにつれて発展的に脇役にまわっていくはずである。

今日、「自閉症」や「発達障害」や「統合失調症」に関する本を続けて3冊読んだ。
それらは批判的な否定的な内容ではなくて、理解を促進するような、考え方をかみ砕いた、分かりやすい展開だった。
ゆえに、私の中では「何が障がいか、病気か」「私にも当てはまる」という視点がやさしく受け付けられた。いや、潜在的にあったものが浮き出てきたに過ぎないという表現がふさわしそうだ。

はっきりとした境界線というものがないからだろう。

「依存」に戻そう。
人間の発達で、乳幼児というのは「依存的」なものである。

そういうものである。
よって、
「まぁ!なんてこの子は依存してるの!依存しないの!やめなさい!」
的な注意はおそらくされないだろうと思われる。
しかし、激しいとそうも言いたくなるとは思う。
家ではOKだが、外ではNGみたいなものもあるだろう。

「衝撃な実態」「驚きの現実」ではないだろう。
「うちの子、2歳なのに、パシリみたいに私のことを使うのよ!歩いて取りに行けばいいのに、自分が動きたくないからって歩けないふりするのよ!信じられないわ!」
なんてことはありえない。

頼らざるをえない発達段階と言いたくなる。
必ず誰でも「依存」の時期を通過するものである、と定義したくなりそうになる。

しかしながら、そうあるべきであるはずなのに、「え?」「あれ?」と「依存」が分かりづらい発達を進めていきながらも、「うちの子は依存しないわ。偉いわ。早い内から自立しているわ。」的に都合良く解釈することもありうるのかもしれない。

例えば、授乳中に母親が寝てしまうとする。欲求が満たされない時、赤ん坊は泣いて知らせるはずである。音に敏感な母親であれば慌てて体勢を整えるだろう。まぁ、育児はたいへん疲労困憊する労働であると言われるので爆睡に近く少々のことでは起きないということもありうるかもしれない。
赤ん坊の立場に立てば、泣いているのにも関わらず、欲求は満たされないということを不幸にも学んでしまう。もしも「泣く」という行動が非常にエネルギーを使うのであれば、空腹のサインを出しつつも、爆睡してしまうということもありうるかもしれない。

私は授乳時(赤ん坊として授乳されている期間)、栄養失調と診断されたことがあるそうだ。

どれくらいの量が、「満腹」であるとか「空腹を満たしている」のかは、分からないのだろうとは思う。

しかし、もしも、母親に多少の「ゆとり」があれば、時折、赤ん坊の表情を確認して、「もう要らん(お腹いっぱいだよ)」的なサインをキャッチしていけるのではないかと思われる。

「依存」の権利を堂々と発動できるのは乳幼児期だとすれば、十分に発動されないことによって、「私の辞書には依存という文字はない」的な外から見ると「お、自立してんじゃん」と思われそうになることもありうるのではないかと思った。

「依存、何それ」的な世界にあると、いや、厳密には辞書にもないくらいなのでその表現は誤っているが、「ふつう、依存してそのことを成し遂げるものである」というところを、「何事も自力で対処して成し遂げるものである」というプログラムのようなものが発動されたとすると、同じ「必要なことをする」工程、例えば「物を取る」という操作は「物の近くにいる自分ではない誰かにお願いして取ってもらう」というところを「物の近くにいる自分の一部を操作して取る」的な感覚になるのかもしれない。

「どこまでが自分なのか」
そんなもの自分は自分だよ的に考えるなんてことは「ふつう」しないのかもしれない。
しかし、「自閉症」関連について知ることを通して、そのことを考えること無しには深く理解できないような感覚になる。

「ふつう」しないことをすることは「ふつう」じゃないかもしれないけれど、「ふつう」しないことをするようになることは「ふつう」なのかもしれない。むしろ、「しないことをするようになる」ということなのだから、「発達」とも言えそうだ。




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時間の経過の音(ト書き)
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「私のことはいいの!」

「私のことは私の問題だから(放っておいて)!」


かつてそう放った声の主の一つの物語。

「また昨日、救急車を呼んだわ。
胃が痛いのなんのって。
検査をいろいろとしたわ。
帰宅したのは深夜よ。
今日も念のため検査なのよ。」




「私のことはいいの!」

「私のことは私の問題だから(放っておいて)!」

かつて、こう放たれた子どもの一つの物語も同時進行している。
「困ったときどうすればいいの?
なんていう台詞を放てばいいの?
どうせ泣いたって誰も助けてくれないんでしょう?
何をすれば私の痛みに気づいてもらえるの?
誰が私を助けてくれるの?
誰か助けて。」

心の叫び的台詞である。

心の台詞が、身体によって表現されることもあるという。
スキップをしてうれしい楽しい幸せな心の台詞を表現する。

だったらつらい心の台詞はどう表現されるだろう。



「私のことはいいの!」

「私のことは私の問題だから(放っておいて)!」

かつて、こう放たれた子どもの一つの物語は、「ふつう」への戸惑いを超えたのである。
自分への問いかけと答えを超えて、「他者」を想定した台詞を表現できるほどに確かに成長しているのである。


あなたの例えば「痛み」の物語は、あなた自身があなた自身を知るというプロセス(過程)で紡がれていくのですよ。


KAZU |MAIL