ふつうっぽい日記
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2012年02月10日(金) |
探していた葉書が見つかった経緯 |
昨年の秋に、いただいた葉書が行方不明だった。
まぁ、これも意味があるのだろう、と言い聞かせて焦ることではなかった。
年賀状作成の時期にもしも手元にあれば送っていたかもしれない。
今日その行方不明の葉書と再会ができた。
SNS系のサービスでメッセージを突然送ってこられた方がいた。 精神的に少々揺らいでおられたのかなと今となっては思う。 それは最近受信したメッセージにそのような言葉があったからである。 最近受信したメッセージは非常に前向きだった。 自分自身を振り返っての有意義な「今」を語っておられた。(と、私は読み取った) これまでの何回か対話的なメッセージを交換してきた。 私はその方のカウンセラーではないので、アドバイス的なコメントは控えるようにして、「自分自身を知ること」に繋げて体験談をエピソードとしてコミュニケーションを続けていった。 気ままに連想されたエピソードを綴る中で、お互いに「心の扉」を開いて行っているような感覚があった。
本名も知らないニックネームを通してのやりとりである。
かつて、気持ちに入り込み過ぎて息苦しくなった経験があったおかげで、「引き」の姿勢の実践レッスンをさせていただくような意味が私の中ではあった。
「前の私だったら、ここでこう切り返していたのかもしれない」 という有意義な振り返りも出来た。 違う切り返しでありながら、自分自身を知ること、繋げることを意識した言葉。 かつてとは違う対象(人)だけれども、いや、だからこそ、新しい考え方を試せたとも言えるかもしれない。
とりとめのない日々のあれやこれやのメッセージのやりとりというのもほのぼのとさせてくれるものではある。そういう交流をお互いに求めてステディな関係を構築していこうという意識の共通理解はしていなかった。
私は自分自身を知るというテーマでの「学び」としての関わりとして位置づけていた。 最近受信したメッセージが一段落したような雰囲気であったので、その方の人生を見守るようなメッセージを送った。 謙虚なお別れのメッセージという意味合いも含んでみた。
「別れ」というと、なんだか男女関係のようにも思えてしまうが、40代前後の「ええとし」の女同士とのやりとりである。
やりとりの途上では、素直な内省ともいえるような表現があり、「嫌われたらどうしよう」という不安があったことを伝えてこられた。 何度かこのようなアプローチで話を聴いてくれる人を探しておられたのかもしれない。
聴き続けることを続けるという選択もあったとは思う。
私自身が聴き続けてほしいと思ったことがあるように。
「嫌われたらどうしよう」「見捨てられたらどうしよう」という思いを素直に言葉にして伝えられた、その先の展開まで受け止めなくてもいいのかなと思った。 直感である。
芸術方面へ「揺れ」を活かす、ということを歩み出すにあたり、「ちっぽけな自分」と闘うにあたり、伴奏者が必要だったのかなと思われた。
いろいろとやりたいことが浮かんできて忘れない内に実際に行動を起こすという頼もしい意気込みを伝えてこられたので、「今だ」と私の中で直感して、尊敬する恩師からの言葉をアレンジしながら、メッセージを送ることにした。 尊敬する恩師からの言葉は、恩師の書かれた著書に貼り付けていた。
その著書に私は、葉書を挟んでいたのだ。 探していた葉書は、恩師からの葉書というわけではないのに、なぜか挟んでいたのである。
恩師からの言葉を借りてアレンジすることに、ちょっぴり恥ずかしさもあったが、いやいや、その恥ずかしさを超えたからこそ、探していた葉書に出会えたともいえる。
私がそうだったように、対話の人間関係上、想像上、亡き者に、排除されるかもしれない。 私がそうだったように、有意義に「内在化」させて「この人なら、こんな時、なんて言うだろう。どう考えるだろう」と置き換えることに成功するかもしれない。 いや、それは違うか。
ロケットの補助エンジンのように、有意義に燃え尽きる役を物語りたい。 私も私の道を一歩ずつ歩んでいくのだから。
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