ふつうっぽい日記
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2012年02月13日(月) 音楽の棚の整理

生理と整理はまったく違うけれども、なんというか身体の中の整理が生理なのかなぁと考えると腑に落ちると思える時がある。
そう思える時は、「整理」をする日に適している気がする。
しかし、「決断」をするには適さない気がする。

現在、次学期に向けての科目検討中であるがモノとの決別は出来ても、科目決定には関心が向かない。この一週間ほどは、考えの整理期間。
モノへの執着との決別には有意義に活用できそうなエネルギー。

ここ2時間ほど、音楽CDを整理した。
処分するモノの選別である。
音楽CDは、決められた切り取り方をしている。
ハマった「その時」は、決められた切り取り方に意味があった。
じっくりとハマるために主体的に引き寄せたのだ。
ハマり続ける必要などないのだ。
ハマったあの時期というは、ただ「その人」「そのグループ」というだけでコレクションしたくなったものである。

なんだかにハマるということは長い人生において経験しておくといいのかもしれない。
「ハマる」というプロセスを経験することに意味がある。

流行にハマれない自分に焦ったこともあった。
流行だからという理由でハマろうとするところがおそらく考え方がずれていたのだろう。
流行は「きっかけ」に過ぎない。
まずは決められた「型」にハマって、自分の型に変形させていくこと。
そして、自分の型にハマる心地よさまで持っていけると最高なのだろう。

決められた「型」のいいところ、好きなところを寄せ集めたくもなる。

古い物を手放すことで新しい物が入る。
新しい物というものが、手放した古い物よりも歴史的には古いものであることもありうる。
だから単に手元にあるものが歴史的に古いものだからという理由だけで手放すことをためらう必要はない。
たまたま歴史的に古いものであっただけで、自分とその物との結びつきを優先したいものは持ち続ければいい。

時々、こう考えることがある。

例えば本との繋がり、出逢い。
自分自身がこの本との出逢いによって、考えが広がったように、その本を手放すことによって、他の誰かとその本との出逢いを繋いでいくのかもしれない、と。
独り占めしなくてもいいのだ、と。
たくさんの出逢いを取り込んでいいのだ、と。


例えば図書館の貸出期間2週間を超えて独り占めしたくなることもあるだろうし、図書館に所蔵されているかの確認よりもまず書店で一目惚れするかもしれない。

そのあたりの考え方は人それぞれだ。

こういう視点に立つと、「贈り物」にこめる想いは自分に置くか相手に置くかに迷ってしまう。
一時期、表面的なecoにこだわった。
「重宝する物」「実用的なもの」「無駄のないもの」こそが生活の中心になるべきである、といった狭い考えに追い詰められていった。

狭くなると広がりたくなるものである。
広がると狭くなってしまうものである。

近くても会わない人には会わない。
遠くにいるからこそその存在に大きな意味を持たせることもできたりする。
近くにいれば会わないだろうなと思う人が遠いところまで来てくれて深い話をしてくることもある。

「距離」と「時間」。
ほんの2,3キロの道のりを遠いという人もいれば、近いという人もいる。
どこから先が近いというのか、遠いというのか。

そのあたりの考え方は人それぞれだ。

しかしながら、自分の考えを伝えるということはきっかけを活かして続けたいと思う。
自分の考えは変わり続ける。
アレンジされていく。
だからこそかけがえのない時間を過ごしているのだろう。
「続ける」ことは変わらないけれど、何を続けるかは変わり続ける。

「何かを続けること」の「何か」に執着していないだろうか。
しかも「何か」を「一つ」だと思い込んでいないだろうか。

「何か一つのことを続けるということができない」と言っている人がいたとして、もしも、その言葉を何度も言っているのだとしたら、その言葉を言うということに関しては「続けること」に成功している。

「ありがとう」と言い続けることが出来たら素晴らしい。
だからといって、「ありがとう」の気持ちが生まれるきっかけの「何か」はいつも同じではない。「一つ」ではない。

同じ人との関わりを続けるという場合でも、人の気持ちや思いなんてずっと同じ状態ではないのだから。


「何かの出来事」と「思いや気持ち」
過去の記憶が「何かの出来事」と「思いや気持ち」から構成されているとすれば、「何かの出来事」は事実であって修正はできないけれど、「思いや気持ち」は発達させることができると私は考える。

振り返る「今」の「思いや気持ち」と「過去」の「思いや気持ち」のギャップに気づいた時、同じく「過去」を共有する誰かの記憶を消したいと思ってしまうことがある。

事実としての「過去」を共有しているからといって、「思いや気持ち」が他者と連動しているとは限らないということを忘れがちだ。

振り返る「今」の「思いや気持ち」と「過去」の「思いや気持ち」のギャップに気づいた時、他者にとってその「過去」が同じような優先順位だと思い込むことがある。

まず「何かの出来事」と「思いや気持ち」を分断することに努力しよう。
そして「何かの出来事」と「思いや気持ち」を新しく結びつけることができるように努力しよう。

再統合のプロセスが成長なのだろう。

大なり小なり病気等を有意義に通過すると再統合を余儀なくされるのかもしれない。
つまり、成長せずにはいられないのかもしれない。


あんな(モノを選んだ)私、こんな(モノを選んだ)私を私自身の中へ再統合させる一つの作業が「整理」なのだろう。


KAZU |MAIL