ふつうっぽい日記
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2012年02月15日(水) |
誰かの言葉を誰かに伝えるということ |
誰かの言葉を誰かに伝えるということ。
たとえば、「あなたではない人」の発した言葉を「あなた」を通して「私」に伝えるという時の、「私」の気持ちを考えたことがあるだろうか。
そして、「あなたではない人」について「私」が多少の人となりのようなものを知っているという時と、まったく知らない人である場合や、著名人である場合の気持ちの違い。
「整理中」の期間は間もなくひとまずの区切りを迎えようとしている。 その間に浮上した私のなかでの気持ちから学びがあった。
それが、大きく束ねると「誰かの言葉を誰かに伝えるということ」だった。 具体的なエピソードを交えながら、広いところへ出て行いこう。
友人に渡したいものがあって、週末、主人の運転で友人宅に寄った。 友人にはあらかじめ知らせており、仕事で不在だけれども家族の方が在宅しておられるので預けておいてもらえないかということだった。
その日は日差しが強くて、主人はサングラスをかけていた。 娘さんが在宅していて、託した。
後日。友人から 「娘が、サングラスをかけた人がきて、不審者かと思って、怖かったって言ってたわ。」 と、世間話的に「私」は聞かされた。
別のエピソード。 母が甥っ子(私にとってはイトコ)と親戚の集まりか何かで話したことを聞かされた。 「イトコ君がね、あなたから来た空メールを見て、何の嫌がらせかって言ってたよ」
どちらも、悪気はないのだ。 ただ、世間話的な場で、「事実」のようなことを伝えたに過ぎないのだ。
友人のエピソードでは、実際に友人がその場にいれば別の展開があったはずである。 私は娘さんと同じ場を共有していた。 そして、イトコのエピソードでは、実際に私がその場にいれば別の展開があったはずである。 私は同じ場を共有していない。
友人のエピソードでは、友人が不在であったこと、その場に居合わせていなかったことをどうにか繋ごうとバランスを取ろうとした結果に過ぎない。 友人が不在だと知っていて、こちらの行動を優先させることを私が選択した時点で、そういった展開になることもありうることを無条件に受容することになるのだろう。
イトコのエピソードでは、母の立場では甥っ子と娘のメールの存在(たとえ空メールであっても)を通過させるための過程に過ぎない。 私自身は「空メール」と聞いて、「間違ったあの時のことだな」と身に覚えがあったものの、予想外な存在(母)からそのことを指摘されたことで違和感を感じたに過ぎない。
誰でも自分が不在の時に、自分に関わることが実行されると、その時どういった状況だったのかというのは気になるものである。 これは広いところへ出て行けたといえそうである。
さて、イトコのエピソードでは、「私」がその場を共有してないゆえに、もう少し考える必要がある。
誰でもその事を知り得ないと思っていた人からその事を告げられると混乱するものである。 その混乱には、「内容」の前に「あなたからその内容を伝えられたというそのことそれ自体」について「私」なりに理解することが求められる。 なるほど、本質が見えてくる。
イトコが「私」がその場にいないのにも関わらず、「私」に関することを語ったこと、しかも、そのことは「嫌がらせ」というネガティブな感情を伴っていたということである。
「母」の立場に立ってみよう。 甥っ子がネガティブな感情を発動させたきっかけが「我が娘」であることを、「母」は抱えなければならなかったのである。 「あなた(甥っ子)からその内容を伝えられたというそのことそれ自体」について「母」なりに理解した結果あるいは過程が 「イトコ君がね、あなたから来た空メールを見て、何の嫌がらせかって言ってたよ」 という言葉だったに過ぎないのだろう。
「イトコ」の立場に立ってみよう。 ネガティブな感情を発動させた当事者にぶつけられるべきだった事案が、たまたま当事者の関係者と対面する機会があったために浮上してしまうことになり、言葉として伝えたくなる気持ちを思いがけず優先させてしまった。 また、「空メール」を受信したことが 「あなた(イトコである「私」)からその内容を伝えられたというそのことそれ自体」について「イトコ」なりに理解した結果あるいは過程が「母」に伝えた言葉だったに過ぎないのだろう。
誰にもなかなか消化するのに時間がかかる気持ちというものはあるものである。 そして、その「気持ち」がより身近な関係、たとえば、家族といった近しい関係にあればあるほど、多層的になってしまうのはなぜだろう。 そういった身近な関係にあるのであれば、筒抜けになったとしても「あなたからその内容を伝えられたというそのことそれ自体」に戸惑う必要などないはずである。
「身近」「家族」「親戚」「血筋」 「近すぎる」からこその多層的であり戸惑う必要性なのだろう。 この戸惑いがなければ、近親相姦的な偏った考えも戸惑わなくなるのかもしれない。
他人であれば気にもならないことが近すぎる人間関係ゆえに気になってしまうということ。 この「気になってしまうこと」は、たしかにネガティブな感情を伴うものなのだろう。 できれば、そういったネガティブな感情とは無縁な生活をしたいと思うのも理解できる。
しかしながら、「甥っ子と話したその時間」、「娘と話したその時間」というのは、たしかに流れた生涯の貴重な時間なのである。
伝える言葉が誰かの言葉であったにせよ、ネガティブな感情を発動させたにせよ、それを伝えているその時間それ自体を支えているものは、似たり寄ったりの「いのち」なのだ。 かなり、広いところへ出て行けた。
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気持ちが整ったところで、母と父にご機嫌伺いのようなメールを送った。
最近、コミュニケーションを取っていないという実感があって、メールの内容はとくにたいしたことではなかったりする。 携帯のメールは結構早めに反応があるので必要な伝達事項を伝えるときに使っていた。 まぁ、見てくれる時に見てくれればいいという内容だったのでパソコンに送ったわけだが、気持ちが整っている、ということは、自動思考が入る隙ができてしまうらしい。 自動思考とは、今日の場合は「仮の実在への執着」。 「見てくれる時に見てくれればいい」と思っていたくせに、なんと、携帯メールで「パソコンにメールしたよ。たいした内容ではないけど、見たら見たよって簡単な返信ください。安否確認にもなります」ということを伝えることを私はやっていた……。
父から「今、仕事から帰宅中。帰って見る」との返信があって、一気に「仮の実在への執着」が意識化され、自動思考に気づき、「やってしまった感」が漂う。
まぁ、このやりとりそのものからも学ぼうじゃないか。
安否確認したい思いを抱えている、不安な気持ちに支配されかかっていたのは、私自身なのだ。 見守っていることをあえて伝えることで、見守られたい思いがあふれていたのだ。
高齢者だから心配なんだという気持ちを伝えつつ、心配してほしいという依存。 その気持ちも無邪気で大切だ。 自分自身の不器用さを愛そうじゃないか。
やっぱり、「近すぎる」と、おかしくもなるのだ。 そのおかしさが日常生活に支障を与えなければOKなのだ。
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