ふつうっぽい日記
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2012年02月24日(金) 「目を覚ます」とか「目覚める」について

「君たちはまだ目を覚まさないのか?」
この言葉を思いがけずある現場で聴くことができた。

「君たち」というのは小学生である。
発言者は指導者である。
他にも
「大人になりなさい!」という言葉。

「引き」で見ることができた私の思い、場の受け取り方はこんな風だった。
まず、好き好んでこの言葉は放たれていないということだ。

その場を収めるために思わずこのような言葉を言ってしまったという感じに思われた。
伝わらない悔しさとかもどかしさみたいなものが表出された、という感じだった。
その場を冷静に収められない自分自身の弱さのようなものと向き合い、「何かの学び」になる思いが引き出されるまでの過程に過ぎない、という表現が近い気がした。

「何かの学び」とは、例えば感情や方法の押しつけに気づく、我に返るということである。
「ふつう、こんなときこうするものでしょう?」
「何回君たちは注意されれば分かるのか」みたいな言葉を言ってしまった自分自身の姿を「引き」で見ることに成功してしまったという感じの。
「まごまごする自分」の発見、認識、意識。

大人は子どもと関わる時、「引き」で見る「ゆとり」に恵まれるものである。
その「ゆとり」が「ふつう」の枠みたいなものを広げてくれることもあれば、その「ゆとり」があることによって「ふつう」を強要してしまうことがあるのではないだろうか。


メディアで取り上げられていたある騒動、事件で、親しい関係者から騒動の当事者へ向けてのメッセージとして
「お願いだから、目を覚ましてほしい」と言っていた、ということが、アナウンサーの言葉を通じて耳に入ってきた。
騒動には「ふつう」の枠がずれているような何かが背後にあるようなことを伝えていた。
「お願いだから、目を覚ましてほしい」という時の、「目を覚ます」というのは「現実を認識してほしい」とかいう意味だろうと思う。意識不明とか昏睡状態で眠り続けている状態ではない。

私は思った。当事者は「ふつう」とされているかもしれない枠からずれた世界に「目覚めた」のだろうと。思いがけず「目覚めてしまった」というのが近いのかもしれない。

私も少しだけ似たような経験がある。「ふつう」とされているかもしれない枠からずれた世界に「目覚めた」思いがけず「目覚めてしまった」期間がある。私の場合のそれは社会生活上の困難を周りから指摘される機会に恵まれたことによって、その機会が恵まれていたものだという意識を自分の中に見いだせたことによって、その期間について私自身が「引き」で分析できるように改善されていった。その思いがけず「目覚めてしまった」期間を経験したことによって、無理のない、自然な自分自身にふりかかる現実を受容できるようになった、成長できたと言い換えられる。

「目覚める」というと、眠り続けていた人がハッと我に返るということもあるだろうけれど、眠りを忘れていた人がさらなる覚醒によって「目を覚まし続ける」ことになった、起きているにも関わらず起き上がったというような「二重の目覚め」が厳しい現実を引き起こしているのだと思う。

よって、
「とりあえず、お願いだ、眠ってくれ。頼むから、休め。」という促しが有効なんじゃないかと思うのだ。

しかしながら、「二重の目覚め」の世界では、休むことは死ぬことなどと置き換えられてしまう危険性があるかもしれない。そういった間違った置き換えや変換は「幻聴」「幻視」に繋がっているのではないかとも思う。
これは、私が「引き」で「私の経験」を分析するとそのように物語りたくなったから、という理由にすぎない。

「私の経験」「誰かの経験」
そのことそれ自体は、通過点のある状況を切り取った時の呼び名に過ぎない。
通過点には、いろいろな障害物があるのが「ふつう」である。

「二重の目覚め」の状態にあったばかりに、「思想的な何か」に支配されてしまう、ということもある意味「ふつう」なのかもしれない。自分自身では回避できないことなのかもしれない。

かつての「私の経験」「誰かの経験」の通過点の呼び名に過ぎなかった時間の流れそのものは、現実であり事実でもあるといえるだろうが、そこに寄り添っていた気持ちのようなものは、ぼんやりとしか分からないものである。そこをはっきりさせるために「私」や「誰か」にマイクを向けて追求していくのは、残酷である。

時が来れば、「私」や「誰か」は自発的に語り始めることもあるのだ。
その「経験」がこれからの希望や未来に繋がるきっかけであったに過ぎないと受容できるようになるかもしれないし、「経験」の対価に戸惑うこともあるかもしれないけれど、やはりここは価値のある成長へ繋げるための「学び」として収まっていってほしいと願いたくなる。


KAZU |MAIL