ふつうっぽい日記
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2012年02月29日(水) 静かな時間からの考察

2月29日。
ある手帳の日々の言葉に「帳尻あわせの日」という言葉があった。
そして、別の日々の言葉を集めた本に「静かな時間を持ちましょう」という言葉があった。

帳尻あわせの日だと思って、「自分らしくはないこと」をエイヤ!とやっちゃおうじゃないか的な促しの言葉もあった。
例えばモノへの執着を断ち切ってみるとか。「モノ」といってもいろいろとある。「断捨離」的な精神にも通じるような「物」の整理という視点。そして、摂取し過ぎると身体に良くないとされている「食べ物」。また、「人」との約束。
そして、自分らしい化粧やファッションなど。

今、私はパソコンを開いてこれを書いている訳だけれど、「いつも」ならラジオを流している。そうでなくてもCDをかけたりして「音」を流す、ということを無意識的に、習慣的にやっている。

今、ラジオは消している。
細かいことを書いておこう。
午前10時にラジオを消した。
12時15分頃から20分間ほど昼食を取ったのだがその時はラジオを付けた。
付けた理由もちゃんとある。
そして食後、ラジオを消した。
「いつも」聴いているラジオは消したが、いつもしない「お香を焚く」ということをやっている。
お香を焚く時の傾向としては雨が降ってじめじめとしている時だ。
今の天気は空気は冷たいが晴天である。
洗濯物も外に干してある。
もう一つ、いつもしないことをしていることに気づく。
窓を開けていることだ。

10時から12時頃までのラジオオフのひととき。
広範囲ではないが、片付けと掃除(拭き掃除)をした。
デスクトップのパソコンの配線を整理した。
数日前に買った、封筒自作定規を手に取った。
次に、何気にイラストが気に入っていたので保管していた(床に放置していたに過ぎないが)カレンダーの表紙を拾い上げた。
そして、食卓で2つの封筒自作をやり遂げた。

そこで、我に返った。
なんだか「寒さ」を感じた。
風邪を引いたのか、という不安が少しよぎった。
しかし、である。
無意識に、習慣的に流していたラジオ(音楽)から実は癒されていて、例えば風邪を引きそうな「気」のようなものを跳ね返すことに成功しているのではないか、という考えが巡った。
そして、窓を閉めて、ラジオを付け、昼食を取った。

今、窓は開けられ、ラジオは消されている。


ところで、「窓」から「気」のようなものが入ってくるのだとしたら、どういう「気」だろうか。
「空気」?

空っぽの「気」。
空色の「気」。

「気」は見えないものである。
しかし、カーテンを揺らしているのは「空気の流れ」である。
見えないものであっても、こうやって何かを動かしてその存在を伝えることがある。

何かのきっかけ、例えばラジオの音だったり香りだったり本などの言葉だったり、そういうモノから行動に繋がることもある。
そういうモノの存在感が慣れてくると、行動に繋がりにくくなるのだと思う。

あえて習慣になっていることを断ち切る、ということは自虐的かもしれない。
けれどもこういう小さな規模で、何よりも自分自身が把握できている確実な範囲で、自分らしいと思っている習慣を「絶つ」経験は大切なのではないだろうか。
自分自身がちゃんと存在していることは絶対条件である。
自分自身がいることで「絶たれた」経験を再生させることができるばかりでなく、自分自身を責めることも回避できるどころか、絶たせたゆえにいかに自分にとってその習慣が大切なモノであったかが分かるきっかけにも繋がる。
また、逆の視点もある。
「これがないと生きていけない」くらいに依存していたモノと少々関わらなくても自分自身をちゃんとコントロールできるという自信に繋がる。

自分らしさの条件を限定していないだろうか。

静かな時間は「ゆとり」を実感できる。





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