ふつうっぽい日記
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2012年05月11日(金) |
近視眼的視界を広げるために |
A子とB子、二人の少女について、わたしの中で点と点を強引に繋ぐためのエピソードである。 よって、フィクションである。
どうして、このように文章として書いてみようと思ったかというと、わたし自身の中での意識されていない思いを知る手がかりにしたいからである。 つまりは、少々煮詰まりそうになっている、近視眼的になっているからである。
A子とB子は姉妹ではないが、同じ歳でありながら同じ屋根の下に暮らしている。 A子には姉妹がおり、この姉妹も同じ屋根の下に暮らしている。
A子とB子は注意を引く子である。つまり、目立つ子である。 B子は自己中心的な行動が多く、思い通りにならないとかんしゃくを起こすことがあり、A子がB子の「邪魔」をすることがあると、蹴ったり叩いたり、暴言をはくことが多々ある。 それでもB子は、注意が持続することもあり、いわゆる「いい子」の時もある。 例えば「わたしは今、集中したいの。だから、静かにして」と、学習課題に真剣にとりかかることなど。 A子が出しゃばって注意を引く行動をB子よりもすると、B子はだまっちゃいない。怒りの表情でA子を注意する。そんな時、A子は、B子に「ごめんなさい。ごめんなさい。」と謝るような言葉を発する。
A子は学級では授業を妨害する傾向にあるという。 わたしが観た時もたしかにそのような行動が多く感じられた。 指導者からは、「あなたには本当に迷惑しているの!」という叱り(怒り)の台詞しか聞いたことがないような気もする。そして、A子を強引に「別の指導者」のいる教室に連れて行くのである。 今日に関しては、A子は指導者に激しく抵抗していた。つまりは、蹴ったり、体当たりして不安定な気持ちをぶつけていたのだ。
わたしは「別の指導者」の指示のもと、他の教室で学ぶ場面で、指示が通ってない様であれば近くで指示を与える、という役目がある。
「別の教室」の指導者を含めた3名が戻ってきた。 そして「別の指導者」が「A子についておいてください」とわたしに念を押した。 指導者はわたしのための椅子をA子の席の隣に準備してくれたが、A子はまったく椅子に座ろうとせず、立ち歩き、触ってはいけない引き出しを開けようとし、それを注意すると「ごめんなさい。ごめんなさい。」と言って、一度は行動を止めるがまた同じことを繰り返す。 わたしは出来る限りA子の近くで張り付こうとするが、「ちゃんとするから、あっちへ行って」などと言われてしまう。
おそらく、B子が同じ教室にいたなら起こす行動も違うだろうと思われた。
A子が中庭で鉢植えの観察学習のため外に出ることになった。 後の流れで、「自分の水やり用ペットボトル」を持ってきて鉢植えに水をやるという活動があった。 わたしはA子の近くにいたが、A子は果たして「自分の水やり用ペットボトル」を持っているものなのか疑問に思って、指導者に確認した。指導者はA子に「あなた持ってないの?持ってないなら、仕方がないから学校のジョウロで水やりをしなさい」と指示を出した。
当然のごとく、水やり加減に不器用さが出た。 「やりすぎです!」
後で知ったことだが、「自分の水やり用ペットボトル」は「別の指導者」の運営する教室に存在していたのである。
つまりは、「見通し」が持てない環境が整っていた、ということである。
そして、鉢植えに水をやるという活動は、途中から学年合同になり、同じ学年であるB子も合流となった。B子がちゃんと注意が向いていれば、B子の威圧感でA子の行動もマイナスの行動が抑えられたともいえるが、B子がA子を巧みに操作して、二人してふざける行動をすることになった。
B子、A子。 この二人がマイナスの行動を激しくとると、「わたし」は、一度に行動を修正させるような指示を出すということに自信がない。 結局は、この二人の行動を目撃していた男性管理職からの「指導」で強制的に教室に連れ戻される運びとなった。
わたしに同様の「指導」を求められるのは、正直、厳しい。
また、ある時は、室内での学年合同の時間。 B子が別室で指導を受けており、A子は指導者が持っているマイクを奪って何かを喋ってみたり、CDプレーヤーを勝手に操作するなど、かなり目立つ行動に出ていた。 その時は、学年主任の指導者から、A子に張り付くようにわたしは指示される。
そして、わたしは助言されるにいたった。
「この学校では、遠慮せずに指導をしていただいて結構ですから」と。
わたしに生徒指導的な「指導」をしていないのは、遠慮をしているからだ、という視点である。 「指導者」でなくても、子どものいる手前、大人として「指導者」であることが求められているのである。
わたしのような「引き」で見る立場である大人からしても、活動の「見通し」が見えない状況で、「指導」と言われてもなかなか腑に落ちない。
そうか、「見通し」をわたしが立てるところからすればいいのか。 ついつい生徒指導的な「指導」の重圧みたいなものに、悶々としていたが、わたしが見通すための「見通し」を関係する指導者に求めることはお互いに重圧ではないし、プラスになる要素が多い。
「見通し」の一つのツールが「週案」(時間割)である。 そういえば、A子とB子に関わる指導者からは、もらっていない。 A子もB子も、わたしがどのような動きをするかが分かれば、わたしという介助者を彼女らから活かす道を照らしてくれるかもしれない。
ここで思いだす。 A子が 「わたし、消しゴムで文字を消すのが苦手なの。だから、消してくれる?」と言い、 わたしが消すと 「ありがとう」と言ってくれた。
B子が 「あなたがA子に優しくしているのを見た時、わたしがどれほどイラッとしたか分かる?」と言ってきた時のこと。
そして、問題的な行動を、複雑な養育環境のせいにしてはならないということは分かっている。 それでも、思えばイメージ的に「複雑な養育環境だ」という勝手な枠だけを作っているに過ぎない。個人情報の詳細ではなく、どういった心理的な精神的な配慮が必要なのかをA子とB子に関わる外部からの介助者としては知っておくことは必要なことのはずである。
どういう「指導」を求めているのかではなく、どういう「配慮」が必要か。 「配慮」が分かれば、ニーズも浮き出てくるはずである。 そして、「いいところ」「賞賛」の言葉をかけることに努力し、悪いところを注意するためだけの存在ではないことをアピールすることが、わたしの活動を支える土台になっていくのだろう。
指示や指導が通るためには、コミュニケーションが成立していること、信頼関係が構築されていることが基本。
本格的にA子とB子に寄り添ったのは1週間足らずである。 自信が無いと弱音を吐くには早すぎる。 厳しく指導することだけにとらわれずに、些細なことでも褒める感覚を研ぎ澄まそう。
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