ふつうっぽい日記
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2012年05月17日(木) |
カウンセリングマインド |
わたしなりのカウンセリングマインドで、指導者の言葉を抱えた。 聴きながら半分は、「引き」の視点で頭を休めたり心地よく回転させることの練習だと言い聞かせて、その場にい続ける、そのことを頑張った。
その時のわたし自身の中での揺らぎから、わたしはやはり全体の「仕組み」の中において板挟み的な立ち位置に立っていると考察。 その板挟み的な立ち位置は、わたしの業務の内容から照らすと大いにありえることである。だからこそ、の人材ともいえる。
かつてのあれやこれやを想起せずにいられなかった。
管理職への畏れと不信感。
畏れのあった少々若き時代。
畏れの感覚を取り込み、整えることに成功したかのように思えてしまっているわたしとしては、だからこその次なるステップともいえるのだろう。
不信感というのは、深く関わるまで、または具体的にその対象を知ろうとするまでついて回るものである。よって、具体的にその対象について知ろうとする行動を起こさず、他者にいろいろと何かを聴いたからといって不信感がなくなるということはないのである。 ただ、不信感を抱く対象Aについて知る手掛かりとして、共通のBという人間のことを同じような方針で知ろうと関わる過程で、Bという人間への信頼関係構築と同時にかつて不信感を抱いていた対象Aについて理解が深まっていく、ということはありえると思われる。
一生懸命やっていると、必ず見ている人がいるものである。 その見ている人というのは、かつては自分自身(わたし自身)について不信感を抱いていた立場であるということもありえ、その一生懸命な姿から認知を修正する、考え方を修正するに至る、あらたな考え方への扉を開くことに繋がる、ということもあるのかもしれない。
一生懸命やっている時。 やっている内容がなかなか希望を見出せないようなことであっても、なかなか協力を要請できないような立場であっても、いろいろな人たちをそれでも巻き込み続けながら、適度に傷ついては癒されていくその後ろ姿からオーラを発するがごとく、関わることをやめないこと、何も言葉が出なくてもただただ、その小さき手を支え続けることを努力したい。
君たちの手を支え続けられる時間も1か月を切った。 君たちの心の中の住人にしてほしいなどと厚かましいことは言わない。 どんなに凸凹であっても、そこにはたしかなコミュニケーションがあった。
小さな声がイライラする、と言っていた君。 そして君は周りの大きな声に驚くという体験を通じて、わたしがその場から去るとき、笑顔で小さな声であいさつをしてくれたっけ。 微妙なその時間差を、わたしは点と点を線で繋いで、素敵な笑顔の君の確信の一部にしているからね。
君の願いはかならず叶うから。 わたしの我慢が実を結ぶ、その日まで。 待っててね。
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