ふつうっぽい日記
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雨の月曜日なのに、子どもたちの集中力には磨きがかかっていた。
いったい、どうしたんだい?
でもだからといって、誰かに威圧されて「病的」に抑えつけられているような空気はなかった。
こういう日もある、ということだろうか。 たとえば、今日が金環日食であった、というみたいに。
「わたし、今、集中しているから」といったA子は本当に集中していたし、そのセリフにかぶせて邪魔をするB子はいなかった。
時々振り返り、わたしを見つめるB子だったが、黙々と課題を一人進められている。
「先生、来て来て」と、甘えるB子は今日に限ってはほとんど見られなかった。
いわゆる「お試し」の中休みだろうか。 新しい誰かが来たとき、同じような「お試し」プログラムが発動されるのだろうか。
何かの本だったか、講演会だったかで、子どもの相談任務をされている方が、 「子どもが治っていく」 「子どもが落ち着いていく」 という時、こちら側(大人側、相談を受け止める側、抱える側)はちょっと寂しさが残るとかいうのを聞いたことを思い出した。
1年くらい前のC君もそういえば行動が落ち着いたある時につぶやいてきた。
「もう、僕、大丈夫だから。」と。
何か大丈夫なのかと問いかける価値もあったが、C君の中で「たしかに大丈夫ではないボクがいた」という確信にたどりつけて、振り返った「その時」の言葉がそうだったのかもしれない。 自分自身の中のもう一人の自分にちゃんと出会えた、というか。
「いつも怒られるボク」「見捨てられてしまうと怒ってしまうボク」 「ボクを見つめる僕」
まだまだ子どもなA子は時々、大人に「あなた」と呼ぶことがある。 わたしはまだそう呼ばれたことはない。
「あなたがそう言ったじゃないの」
と
「先生がそう言ったよね?」
とでは空気が違う。
ここでC君のことを思い出す。 時々、C君の中に、C君の作り上げた父親の像のようなものが見える時があった。 がに股でケータイで仕事先の誰かに電話をしながら、偶然すれ違うらしい「お前」が、「わたし」であったことが何度かあった。 もっともケータイというのはオモチャなのだけれど。 「おお。お前か。(久しぶりだなぁ。前にもたしか会ったよなぁ)」的な空気をわたしは勝手に読み取っていた。 C君の中にいる(内在化している)父親像的なものと対峙しようか(できるのではないか)とも考えてみたことがあった。しかし、他の誰かにそのことを伝えるのは難しかっただろう。 結果として、この対峙する作業はC君の中で行われた(と、わたしは解釈した) よって、「もう、僕、大丈夫だから。」というC君の言葉も自然にわたしの中で繋げることができた。 たしかに、それ以降、2週間ほどの短期間ではあったが、C君を見守るという任務の中でかつてと同様な見守りの型を流用する必要はなかった。愛有る距離を保ちながら、別の対象を見守ることができたのだ。つまり、C君はわたしが別の誰かを見守ることに関して穏やかな気持ちを持つことができるようになったのだ。
A子とB子が調子狂わせ的な落ち着いた行動を取った今日。 D君という子がわたしに急接近してきた。 そのD君は、前年度から共通理解されている気がかりな子だとそういえば言っていたっけな、と、D君の方から思いがけずわたしに接近してきたことで思い出された。 D君は給食を終えたわたしの背後をやさしく狙ってきて、 「誰かな?自己紹介してください」というわたしの尋問に丁寧にフルネームを言ってきてくれた。 そして、 「ザリガニ、見る?」という誘いをくれた。 ちょうど、ごちそうさまの挨拶の前だったので、 「今から、ご挨拶みたいだよ」と、空気の通訳をして、挨拶が終わってから、 ザリガニの水槽に少しだけ近づいた。 「君が捕まえたの?」という問いに ニコリと笑った。
わたしは思った。 D君からのお試しが始まるのだろうと。
B子がちょっと前に言っていた。 「D君って知ってる?めちゃくちゃ怖いよ。先生なら、ボコされるよ。たぶん」
上等だ。 笑顔の素敵な子に、悪い人間はいない。
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