ふつうっぽい日記
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2012年06月11日(月) 信頼関係や絆の道を通って

信頼関係や絆の道を通って、伝わるもの。

ふと、そんなテーマが頭の中をグルグル巡っていた。


厳しい現場のピンチヒッター要員的な位置づけで大人にとって気がかりな子ども達に寄り添うということ。
言葉では、たしかに「大人」だって言っていた。
「この先生はあなたが困っているんだなって思って、お手伝いをしてくれているのですよ」と。
子どもからすると、例えばそう言ってくる大人Aへ信頼関係が揺らいでいると、「だから?」と目を吊り上げながら反抗したくもなるものなのかもしれない。

ソワソワする食事の時間。
いろいろな周りの環境が気になって、なかなか席に着かないAさん。
いや、着きたくても着けないAさん。
食事室の職員は、Aさん指導担当のところへAさんを強引に引きずって連れて行く。
食事室での寄り添いも、わたしの任務ではあった。
食事室の職員は、後からこうわたしに言う。
「遠慮されず、Aさんを叱ってください」

この手の「遠慮」の裏に流れる「大人」の気持ちもわたしには分かっている。

「あなたは、この子のお世話をするのが仕事なのでしょう?
ほら、こんな時、あなたはこの子をしっかり押さえて、ちゃんと椅子に座らせるように率先して動くのがあなたの仕事でしょう?
あなたは、落ち着きがない子を落ち着かせるための人材なのでしょう?
どうして、あなたがいるのに、こうやって、わたしがこの子の対応をしないといけないの?
何のためにあなたはそこにいるの?」

出逢って、対面してたかだか1週間やそこらで信頼関係を構築し、かつ、行動修正のための指示や叱責を与えることができるものだと思い込まれているのだろうと察する。
もっと言えば、即時に「大人」が納得する介入ができる訓練や研修を積んでいて、その力量があるから採用された人材だと。

そういう思いこみから始まると、たとえばこういうことも珍しくはない。
出逢って間もないのに、「甘やかせている」という解釈。

厳しい現場では、「いきなり」叱責できるような毅然とした人材が求められているのか?と、思いたくなることもある。
「毅然さ」というのはたしかに大切なことである。
命に関わること、事故に繋がるような事態は、結果として「いきなり」声を荒げて回避に導く、というのは大切なことだ。

第三者からの他者に対する人柄や性格、気質の解釈というのは参考に過ぎない。
学校という社会で考えると、校長と担任とでは子どもの行動、態度にはズレがあって当然だ。
さらに、そこへもって専門的な資格を有する教育者ではない一般人(市民)が参入してくると、さらにズレが出てくるだろう。

「お母さんや先生には話せないけど、このおばちゃんにはどういうわけか話せる」なんていうことは、容易に想像できる。
適度な距離感があるからだろう。
監視ではなく見守られている、という安心感。

わたしは叱責すること、大きな声を出して言い諭すことが苦手である。
相手が複数になるとさらに苦手である。

ただし、「個」と信頼関係を作りながら、「個」に何かを言い諭すことはむしろ自然に力まずに進めて行けそうな確信みたいなものがある。
キッと目を見開いて、しっかりアイコンタクトを取って、指示を伝える。
場合によっては、しっかりしたアイコンタクトに対して、子どもが、うろたえ、逆に反抗してくることもある。
ポジティブな場面、賞賛の声掛けをするという場合、キッと目を見開くというよりは、目を細めて微笑むことが多い。濃厚なアイコンタクトという感覚は意識されないと思われる。

いつも優しい大人が、この場面で、厳しさを表出してきたとき。
初めて怒られたと意識されたとき。
「こっちをジッと見ないでよ!」なんて言って、逃げ場を作ろうとする。
そんなとき、わたしは丁寧に解説する。
「あなたに言葉を伝えるために、伝わっているか知りたいから、わたしはあなたの目を見て話しているんです」
やがて、少しでも行動が修正されたり、正しい行動を起こす姿を認めた時、わたしは心から安心の表情を伝える。

信頼関係や絆の道を作るプロセス、その途上、周りから見ると、わたしたちの関係は依存的であり、「甘え」を与えている光景に見えることだろう。
そして、その光景を批判的に解釈している「大人」というのは、そのプロセスを踏んだ経験がない、理解に苦戦するのだと思う。

幼少時代に何だかの環境の影響で、信頼関係を構築すること、つまり、「信じる」ということに発達的につまずいていると、「甘える」という関係にも歪みが浮き出てくると思われる。
行動的に「甘えている」ように映るが、人見知りを健全に通過できていないゆえに、見知らぬ人であってもとにかく抱きついてしまったり、抱きつきたいくらいの気持ちがあるのにも関わらず、頑なに接触を回避するなど。

「ふつう」の「信じる」という営み、などと書くと思想的な世界に埋まっていきそうだが、わたしの解釈はこうである。
「ふつう」信頼関係や絆の道を作る、という時。
揺らがない安全基地、例えば母親との信頼関係がたしかにあって、それから、いいこと、悪いこと、あれやこれやの探索行動をして安全基地に戻ってこれた小さい時代の経験がたしかな土台になって、「信じる」センサーのようなものが比較的短時間で内側から発動される。
安全基地構築の途上に「甘える」ということが濃厚に実行されている。
そして、やがて、関わりを持とうとする新しい相手の「信じる」センサーとの有意味な駆け引き後、道が出来ていく。その道幅が強固であれば、指示が通りやすくなる。

別の言葉で言うなら、「信じる」センサーを発動させるまでのプロセスを幼少時代にしっかり経験していれば、学習できていれば、「信じる」センサーは短時間で発動することができる。
その学習になんだかのつまずきがあると、「信じる」センサーを発動させるまでのプロセスを何度も何度も人を変えてはその度に再現していくことになる。しかも、発動寸前で関係が分断される、途切れてしまうことの方が多い。

関わろうとする相手に、「いきなり」抱きつく、「いきなり」蹴る、暴言を吐いてみるといった、周りからすると気がかりな行動。行動をする当事者にとっては、そのものが「探索行動」なのだろう。その後の、相手の出方によって、これからの自分の行動を選んでいく感じの。そして、相手の出方を分類して、括って、やがて、折り合いをつけていくのだろう。

信頼関係や絆の道を作るまでに要する時間は人それぞれ。
「困っている」人ほど、丁寧に道を作っていく努力が必要なのだろう。
わたしは道が作られた、整えられた、という手応えを感じられない時、叱責することに苦手意識を持っているのに過ぎないのだろう。
考えてみれば当たり前っぽく思える。
自分自身も、相手も整っている時なんていうタイミングは分かるものではないけれど、少なくとも自分自身が整っていなければ伝わることも伝わらないはずだ。


KAZU |MAIL