ふつうっぽい日記
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2012年06月13日(水) |
わたしを繋ぐ物語の欠片 |
一ヶ月くらい前に、出逢った本。 発達に関連する本。
それは「愛着」に関して知識を得たいとわたしが思ったからだった。 1冊は古本屋で、1冊はよく行く本屋で検索をかけて入手した。 2冊を続けて読み進めた。
「愛着」に関して知識を得たいと思ったきっかけは、子どもとの出逢いだった。 その子どもは不安定な愛着の課題を抱えている(ように、わたしには映った) その子どもと関わる中で浮き出てきたことをわたしなりに繋げていき、知りたくなった。 公に例えばその子と生活をしている大人や指導者に「こういう課題を抱えています」と説明を聞いたわけではない。
つまりは、わたしの思いこみだ。 気にしない人は気にしないことだってありえる。 ただ、1日を、関わるように指示されたその時間を、ただ一緒に過ごす、パートタイム的な任務をこなす、ただそれだけでも充分な役割、仕事。
しかし、わたしは思い込んだ。 だからといって、変な風にとらわれているという訳ではない。 そして、何かを知りたいという時、チラッとネットで検索して「ふーん」と納得する程度でオチが付く、ということだってありえた。
愛着に関する2冊の本。 それを展開した研究者の言葉が、わたしにとっては分かりやすかった。 まぁ、ただそれだけの理由で、他の本を読んでみたいなぁという気持ちを持っていた。
パートタイムの仕事が一段落したので、通信制大学のテキストでの学習を開始。 このテキストは5月初旬にはたしか、手元に届いていた。 そして、テキストの内容に沿った「課題」と呼ばれる10問程度の択一問題を5月末くらいに解答した。解答はテキストをザッと読んで進めた。 気軽なものである。
そのテキストを二日前に本格的に開いた。 内容はラジオで専門家の音声で補足できる仕組み。
「ワンポイントレッスン」というコーナーがあるということをラジオを聴いてから知った。 テキストをめくれば、巻末にワンポイントレッスンの担当者の紹介が少し載っていた。
わたしは驚いた。 そのレッスンの担当者は、愛着に関する2冊の本を書いた研究者だったのだ。
思いがけない出逢い。 活字から肉声へ。 なんという広がり。 展開。
まるで本が引き寄せたかのような。
その嬉しい驚きの日、別のテキストで 「3歳くらいまでの間に全てのことのひな型を経験する」という言葉が響いた。
響いた頭を持続させているようなところへ、「母親からの排泄の訓練」「子どもの自律的行動を期待し、待ち構えるという態度が母親の愛情」「子どもは自律的に行動することによって母親に「報いることができる」ことを知る」という言葉がわたしのなかで繋げられた。
さらに、実母から 「(赤ちゃんであるわたしへ)授乳中、いつの間にか(母は)寝ていた」というエピソードが思い出された。他にも発達検査で痩せ型(栄養失調)と指摘されたことがあること。
たしかに母親にしてみれば、授乳中の子どもは「お腹いっぱい。もう、要らないよ」なんていう言葉を発しないので、どの程度満たされているのかという判断は難しいのだろうと察する。 定期的な体重計測で発育状態は分かるのだろうけれど、ここでも敏感さ(鈍感さ)というか関心の度合いによって、問題になるかは分からない。 「そういうもの」だという思いこみもあるだろうと察する。
「自分で絵本を開いて読んでいた(様に見えた)から、読み聞かせなんてしていない」というのも、ここ5年くらいの間に実母から聞いた(聞かされた) おそらく、 「大人が幼い子に読み聞かせをするのは、その子が文字が読めないから文字が読める大人として、その子に読んであげているのだ」という考え方なのだと思う。
よって、
「絵本の読み聞かせは、大人から文字が読める大人へだってなされることもあって、大人は癒されるのだ」 と、伝えたら驚くかもしれない。
母が子どもに絵本を読み聞かせるという営みがいつの時代から始まったとかそういうことは分からない。 けれど、少なくとも実母はその母(わたしにとっての祖母)から絵本を読み聞かせてもらった経験は無いのだと察する。
しかし、ここで思い出した。 「子守歌」は、歌ってもらっていたのだ。 おそらく、実母も歌ってもらっていた経験があったのだろうと思われる。
3歳。 わたしは三年保育として3歳で幼稚園に入園。 わたしはしっかり覚えている。 幼稚園に行く理由が分からなかったこと。 そして、嫌だったこと。 でも、だからといって、登園拒否は多分していない。 嫌だなぁと思いながらも通い続けていた。 「自分からしゃべらないねぇ(大人しいねぇ)」と、大人達が話していることも分かっていた。 意味も分かっていた。 でも、しゃべる意味というか目的が分からなかった。 静かに1日が終わるように切に願っていた。 面倒くさい運動会の練習も、早く終わらないかなぁとだるそうに眩しい太陽を見上げていた。 「なんでこんなことをしないといけないんだろう」 「お母さんはわたしのことを家で面倒を見るのが嫌なのかなぁ」 なんてことも思っていた。 二つ下の妹が二年保育という違いも、妹はわたしよりも1年長く母と密な時間を過ごせていることに妬みのような感情を抱いていた。
他の家の「ママ」「お母さん」というのは、隣の芝生は青い的に映るものなのかもしれない。 けれど、わたしは、周りがそう呼んでいる「同じ機能としての存在」になかなか重ならなかった。 それはわたしが名前ではなく、「お姉ちゃん」と呼ばれていたことへの不満に通じるかも知れない。
あれは小学校5,6年生だっただろうか。 積極性を培おうという狙いがあったのだろう。 グループ活動サークルに参加(させられた) そのグループの世話人は大学生だったと記憶している。 「させられた」という受け身から始まったが、わたしにも適応力というのが発達していたらしく、そこそこ、そこでの活動や人間関係を楽しんでいた。 どこか参加しているメンバーは通じるものがあった。 それはもしかすると「参加させられた」感情なのかもしれない。 そこでの活動を通して、わたしは「同じ機能としての存在」問題に折り合いをつけられる見通しを持ったのだ。 そのことは、今でも覚えている。 サークルでのお世話役の大学生を「青年」と呼んでいた。
「お世話をしてくれている青年だと思うことにしよう」と。
それは、今となれば、わたしなりの母親との母子一体的な関係からの分離の瞬間ともいえるかもしれない。
テキストによれば、母親は「世話をする人」(「世話をしてくれる人」)から「愛情を与える人」(「わたしを愛してくれる人」)となる、といったことが書かれてある。
「愛」「愛情」 微妙な表現である。 その行動の表現で、繋がるエピソードは幼少時代の母の日。 カーネーションではなく、菊の花を贈ったという。 さぞかし、母は切なかっただろうと察する。 よりによって、菊の花。 そのエピソードを母が誰かに呆れて話していたような光景も思い出される。 もしかすると、空想かもしれないけれど。 その時のバツの悪さ。 「だって、知らんかったもん!」とか「ごめんね……」も言わなかった。 多分、言えなかった。 でも、その時の母の期待はずれの気持ちはリアルに伝わってきていた。
贈る花の種類にも意味がある、なんていうことを4歳とか5歳とか(もっと上かも知れないけれど)それくらいの子どもが知っているのだろうか?
今となって、おぼろげに思い出されるわたし自身の幼少時代の行動を分析すると感慨深いものがある。
母親の役割とか家族の機能だとか心理だとか、そういった領域をわたしが今となって学んでいるということ。
不安定な愛着や発達の課題を抱える子どもと関わっているということ。
「3歳くらいまでの間に全てのことのひな型を経験する」 たしかに、言葉にすることは難しかったが、様々な気持ちが引き出される「経験」をわたしはしてきた。
2年前の今頃。 こういったことを思い出す度に、わたしは憤りの感情に支配されていた。 母親への憎しみ。 コンプレックス。
世代を超えた「母子一体の段階」以降の発達の歪みを意識化できた、わたしの世代。
母はちゃんと母の父母を赦せていったのだろうと察する。 それは、母の表情を見ていると伝わる。 コンプレックスを解き放つのは自分自身であるということ。 他者と比べているのは、自分自身であることに気づけると、するすると引っかかっていた課題が解決されていく。
63年かかって押し込んできた、守ってきた黒い固まり的マイナス的コンプレックス。 これから63年かけて、プラスに転じていくだけ。 苦しんだ分だけ、ちゃんと返ってくる。
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わたしのコンプレックスは あなたのそれとは違うってこと
それでも ちょうど同じ時に お互いのコンプレックスが解放されて
こんな幸せ
わたしは37年だったから 74歳までは返ってくる喜びに包まれるのかな
もしかすると 75歳から違う感じに発達していくのかもしれない それがどんな発達の形かは分からないけれど
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