ふつうっぽい日記
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2012年06月18日(月) |
「シュウマイ」から広がった物語 |
昨日の出来事から。
大型ショッピングセンターへ買い物に行った。
「あと、1品何か、総菜的なものを食べたいね」ということになった。 最初の候補は、「薩摩揚げ的なもの」だった。 しかし、どうもピンと来なかった。
何気にわたしは 「シュウマイなんてどう?」と思いついて夫に伝えた。
夫は賛同した。
そして、「シュウマイ」探しが始まる。
近い記憶の、少し大きめの4個入りの「イカシュウマイ」が想起された。 後に夫に尋ねると、やはり同じ連想があったらしい。
「そうそう、あのイカシュウマイみたいなものがないかなぁって」
まず、餃子などチルド製品が陳列されているコーナーへ。 次に、魚加工品のコーナーへ。 そして、中華お総菜のコーナーへ。 さらに、冷凍食品のコーナーへ。
かつての記憶の「イカシュウマイ」は、実演販売的な期日限定数量限定的な地域物産展的な企画で扱われていた。タイミングによっては、上記4コーナーの他でのこの手の出逢いもありうる。
結局、わたし達は冷凍食品コーナーで「シュウマイ」を買ったのだった。
「あっちにもあるんじゃない?」という推測のあれやこれや。 具体的行動を起こしつつ、「もっと他のものがあるかもしれない」という期待と結びつけながら、次々に浮上する異なる所在イメージ。 その行動や思考過程における、脳の活動の心地よさ。
「近視眼的」な視点では、食材獲得。 そして、「引き」の視点で繋げる、獲得までの行動や思考の流れ。
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たとえば他者理解や、人間関係構築という次元であっても、「近視眼的」になったり「引き」になったりする過程で繋げられていくことが、おそらく、脳にとっては意味のある活動になっているのだろう。
木を見て森を見ず。
小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ。(大辞泉)
葉を見て木を見ずは、相似的な感じか。
まぁ、しかしながら、木を見ること、葉を見ることそれ自体はとても意味がある。
「木を見て森を見ず」ではいけない。 なんて、言われているけれど、「いけない」「すべきだ」と焦りすぎるのも疲れる。
言葉の例え、例えば諺的なもの。 それを言葉として文字として表出するのは、結構簡単。 「ありのままがだいじ」とか「みんなちがってみんないい」とか。 でも、その本質というか個人の経験に照らされてから、繋がること、腑に落ちることは、人それぞれだ。
「これがあれの意味することだったのか!」 「このことがあのひとの言っていたことだったのだ!」という、「わたし」の中での感動。
かつてあのひとのかつて言っていたあれ。 今となっては、かつてのあのひとはこちらのことは忘却の彼方であったとしても、「なんで?」という生き方を選んでいたとしても、「わたし」にとっては「かつて」と「今」を繋ぐたしかな物語。 あのひとにとっては、物語の構成要素にはなっていなくても。 いや、そうなっていないほどに、「わたし」が活かされてくる。
見ず知らずの人、ただすれ違った人の放つ言葉をきっかけに、「わたし」の中から何かが引き出されて、何かが繋がっていくのだとしたら、言葉を放った人の好き嫌いさ加減とかそういうのに翻弄されることのなんてちっぽけなこと。
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