ふつうっぽい日記
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「…その子にとって、あなたとの関わりがきっと…」
子どもへの支援でのエピソードを自分自身の近況を伝えることとして、語ることがある。 もちろん、個人情報をぼやかして、限定しないかたちで。 あくまでも、目的は自分自身を知ってもらうために。
しかし、その場にいない対象を相手に、その場にいる対象を知らないという前提で、自分自身を知ってもらおうとするのは、甘いことだと学んだ。 その甘さの学びは、ある違和感がきっかけだ。 違和感は、エピソードが語られたその日から抱えられていたことであるけれども、状況によっては、自然と無意識下に埋没していくということもありうる。
エピソードを語っていたわたしは、自分自身の存在価値についてアピールしようとしていた。 また、対照的に「いかに自分自身の存在価値が揺らいだか」についての、数年前の個人的なエピソードについても吐露していた。
語られる側としては、なんとか存在価値を支持しようと聴くことに集中したいと思ったかも知れない。いや、語られる側の配慮を意識しないでも語ることができたからこそだ。 二人でテーマを決めることなく、お酒の力でもって、漂いながらの語らいだったので、お互いに連想したことを、つらつらと語り繋げていったに過ぎないのだけれど。
違和感として意識されたのは、 「…その子にとって、あなたとの関わりがきっと(何かの意味を与えているはず)…」
この言葉は、働きかけ、仕事っぷりを支持しているような前向きな言葉の種類になるのかな、と思われる。
しかし、ひっかかる違和感。
そこで、自分自身に問いかけてみた。 巡らせた。
わたしは、関わる子どもに対して、関わる意味を覚えていてほしい、意味づけたいと願って、寄り添っているのか?
答えは、NOである。 多くの通行人の一人であることをのぞむ。 存在してもしなくても関係なく、ピンチの時にどこからか現れ、気付くとその姿は確認できない的で、 「さっき、誰かいたよね?」 「え?」 「いや、何でもない。ま、いっか。さぁ、行こう!」 的な感じを自己演出できるものなら、やりたいような、そういう感じの。
他の誰かに助けを求める時の呪文を思い出させるための誘導役、または、呪文が通じるかどうかのお試し役のような感じの。 しかも、呼ばれて淡々と何でも対応するのではなく、気持ちを雰囲気として素直に表現して、人間的であることを伝える役目。呼んだからといって、いつも、どんなときも笑顔で答えるわけではないということをも、具体的な存在感をもって表現する役目。
こう、文章表現にすると、「微妙」さが漂う。 微妙さを伝えるのには、よかったのかもしれない。 しかし、だいたい、微妙さでもって、自分自身を知ってもらうというのは、意味不明だ。
ただ、存在している自分自身に自信があれば、仕事の場面をエピソードでもって自分自身の存在価値をアピールしなくてもいいのだ。
とはいえ、「その時」は、やはり「その時」なのである。 演劇の台本のように、台詞や場面が設定されているわけではないのだ。 そして、気ままな「おしゃべり」を、つらつらと楽しむことが目的だったのだから。
とはいえ、とはいえである。
いつかの「違和感」が、何かのきっかけで、思いがけず、続く言葉を表現を産み出さずにはおれないということもあるのだ。
間もなく、親元を離れ、13年が経過する。 彼らにとっての、内なる対象喪失。 妬んだり、羨んだり、誰かと比べたりして、ひねくれる過程を経つつも、彼ら自身の人生が実り豊かなものでありますように……。
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ここで、繋げられたことがあった。 仕事のこと。 仕事の仕組みのこと。
毎回、任用時に試験をしなければならない、という仕組み。 前年度採用実績者であっても、その都度、試験をするという仕組み。 それが当たり前の考え方として、ちゃんと派遣先や事業主が共通理解されていたこと。
「我慢が実を結んだ」一つの形として、繋げることができた喜び。
市民の声は、子どもと関わって、動揺しつつも受け止めてきたそのエピソードは、伝えられる意味があるんだ。
ちゃんと、喜怒哀楽の気持ちをふるい分けて、切なるメッセージとして受け止めていただけていたことに、感謝したい。
「戻ってきてくださいね」と気持ちをこめて、わたしに伝えてくださっていたこと。 わたしが人目をはばからずに、元気に飛び上がって手を振ったこと。
その気持ちを持ち続けることを続けたい。 その気持ちを持ち続ける、一つの「仕事」の形が、今のところ、パートタイム的な支援者であるに過ぎない。
少しずつ、わたしは守備範囲を広げようとしている。 理論と実践と結びつけながら。
実践は、「仕事」としての施設という場だけではない。 わたし自身が生きてきた、家族関係の歴史、人生としてのあれやこれやの実践。 喜怒哀楽、生々しい歴史。 憎しみの連鎖、世代間伝達もまた、貴重な歴史の実践記録だ。 わたしが抱いてきた繋いできたマイナスのスパイラルをプラスでバランスをとっていくのは、わたしの役目なのだ。
わたし個人から、「引き」の視点で広げることをどうか畏れないでほしい。
燃え尽きた経験をも確実なる歴史、実践記録にできる力が「わたし」にはあるのだから。
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