ふつうっぽい日記
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悪魔と天使とか、そういうのではなくて。
自分自身という一つの入れ物のなかに意識される「私」と「わたし」。
先日、思いがけず大学時代の幼稚園関連の音楽表現の担当者の著書に出逢った。それは小さくて薄い本だった。 そこに「わたし」という言葉が載っていた。 「わたし」というのは、子ども目線での、子どもの心を中心とした純粋な、素直な自分自身という意味である。 子どもと関わる大人は、「わたし」と出逢っていたほうがいい。 「わたし」に近づくための、学びの一つとしての大学の科目。
「私」の中にある、もう一人の自分。 その存在イコール二重人格的な「枠」外の本来いてはならない排除すべき存在だと「私」は何年もの間、思い続けてきた。
ところが、わたしのここ1,2年くらい「学術的関係妄想」を抱かせていただいている尊敬すべき方々たちの中には、「私」と「わたし」がたしかに存在していたのであった。書籍の中での活字として放つ存在は、もっぱら、「わたし」からのメッセージなのである。 男性であれば「僕」と置き換えられる的な。 わたしに限っては、傾向として、「学術的関係妄想」として位置づけられる彼らは共通して「僕」と称している。 「僕」は、時に堅苦しい専門書では、「私」を使っているが、心を開いているような種類の言葉では「僕」を使っている。
「私」から「わたし」を誕生させることに成功したきっかけは「僕」の存在である。「あたし」を誕生させる試みもあることにはあったが、「わたし」が、わたしにとっては都合がいいというか、しっくりきた。
「わたし」を定着させていくために、例えば友人とのメールに、以前は「私」を使っていたが意識して「わたし」を使っている。 それくらい、「わたし」は「私」にとっても、器の主としても、しっくりくる存在なのである。
「わたし」は、別の誰かにとっては、「私」という記号で統一されていることだろう。その、わたし(つまり、この時の「」抜きの“わたし”とはこの文章を作っている主体のことである)にとっての「わたし」の意識化が、人生の発達の早期でなされることもあるだろうし、65歳以降かもしれない。 65歳以降であった場合の例えば高齢期に発症する病の中にあるとき、その心を支える存在に「わたし」がいるのだろうか?などと思った。 「わたし」を知りえない対象にとって、「私」との違いがギャップが例えば障害になっているのではないか?などということも思った。 または、「わたし」が「私」と共存していいという了解を肥大化してしまった「わたし」がつかまえられないのではないか?ということも。
病や障害や症候群的なそういう括りの原因や特徴とされる一つ一つは、似たようなことが「日常」のある短い時間、限られた期間において、起こっている。
日常的に「忘れっぽい」人にとっての「物忘れ」。 日常的に「忘れっぽい」人とはかけ離れている人にとっての「物忘れ」。
わたしの「わたし」は、例えば「忘れる」「忘れた」ということには、絶妙に鈍感力、楽観性を機能させることに成功している。 「ま、いっか〜」「なんとかなるさぁ」的に。
なるほど「わたし」の誕生は、鈍感力、楽観性の獲得、発達といえそうである。
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