ふつうっぽい日記
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2012年06月27日(水) 選択肢

例えば、「べつに。」的な感じで現実を括る傾向にある人にとって、ある選択肢を提示して選んでもらうというのは、策なのかもしれない。

最近、知人から何気に振られた問いかけにムッとしたわたしがいた。
しかしながら、わたしはその時、雰囲気を大幅に変えることなく思いを伝えることができた。
よって、悶々とした愚痴的なものではなくて、一つのプロセスの事例として位置づけることに成功した、とも言える。


「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」

転勤族である立場としての主体である我が夫に対する思いを、その妻であるわたしに問いかけることで答えを得ようとしているのである。

これ的な質問は、ふり返れば人を変え、ニュアンスを変え、言われてきた。


転勤と一括りにしても、状況は様々。
サラリーマンと一括りにするなら、もっと世界は広がる。
よって、例えばサラリーマンと自営業を括って何かを語るというのは、
「今度生まれ変わるなら、男がいいか女がいいか」という選択肢の空気に似ている。(と、わたしは思ってしまう)


転勤族。
転勤族というのは希望する場所に異動する人ではない。
場所がどこであっても叶うならば定住したいに決まっている。
定住できるという可能性があって、「マイホーム」を持つという選択肢が現実的になるのである。

「住めば都」という言葉がある。
この言葉を
「住めば都というじゃない」的に慰める言葉として放たれる空気に、わたしは親和性を感じない。
似たような空気として
「別居していても、それぞれが生活を楽しんで、時々一緒に会うというのもそれはそれでいいものですよ」がある。
これは、芳醇な人生の重みを放っている「教授」の言葉である。
20代30代の新婚的な主婦に向ける言葉としては適切ではない。



「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」

出生の土地とか、またはどこかお気に入りの土地があったりするのか。
転勤族だからこそ、多様な土地で暮らす中で、ここはいいなぁとか思うところってあるんじゃないのか。的な、仮説が問いかける側にはあるのだろうと察する。

妻として、同居人として、転勤とともに翻弄されてしまう側として、その行動に強く影響を与える主体(夫)の感情に巻き込まれることは簡単なことだ。しかも、その感情というのは、思いこみなので、状況によっては「ひねくれ」効果を発動させる。


「転勤族にはいろいろあるだろうけれど。
ひとところに定住できるという約束がない立場にある者に、選択肢が与えられるというのは残酷なことだよ。たまたま、今いる場所がわたしの出身地だから、戻ってこれてよかったね、なんて言われるけれど。ここが戻る場所という前提があるわけじゃない。」

とはいえ、1日ずっと、次の転勤が言い渡されるまでの間ずっと、ネガティブな思いや不安に支配され続けている訳ではない。
そういうネガティブな思いが引き出される多くは、他者からの何気ない世間話で、この領域に及んだ時である。
ネガティブな思いは、当事者としては通過させていくべきものである。避けられない。
少なくとも、「生」今、ここで生きていることに希望や楽しみがあるのなら必ずひっついてくる。
しかし、日々過ごしていくこと、生きていくことを「どうでもいい」という強い信念があるならば、通過させていきべきものも「どうでもいい」のであるから、そもそも意識されないのかもしれない。

ネガティブな思いを通過させるにあたって、その時間は個人差があるものだ。
「なんでやねん!」的な憤りにしばらく支配されたのち、「仕方がないなぁ」と次なる行動を起こす。
「はいはい。転勤ですね。了解です♪」と、気持ちを切り替えられるに至ることができるとしても、頻度が8回なのか100回なのか、これまた個人差がある。

転勤と無縁の他者は、例えば年賀状の住所が頻繁に変わることに苛立ちさえ抱くこともある様だ。
「結局、今って、どこにいるんだっけ?」
という何気ない、メールのメッセージもタイミングによってはアドレスを削除したい感情に支配される。


安定している立場にとっては、「上から目線」的な構造になるのだろう。

例えば
「旦那さんとしてはどこがいいと思っているの?」

「資格があってもこの時給です。交通費の支給の限度額は決まっています。」

という言葉はまったく場の設定が違うけれど、これを言い放った人間は安定している立場にある。
後者は求人をしている側、つまり、従業員を募っている側である。
その事業主であることもあるだろうし、求人をすることが事業である窓口であることもあるだろうが、いずれも、この言葉を発する立場というのは雇用されている側である。
そこらへんにたまたま歩いていた人に言わせた言葉ではない。
いや、「言わせた」のならば、それを指示した立場が別に存在することになる。
「そこらへんにたまたまた歩いていた人が言った言葉」だとしたら、それは独り言なのであって、職を求めている人にとって有益な言葉として意識されない。


「上から目線」で言われることには敏感だが、自分自身もそういう立場で言っているということには鈍感なものである。

買い手市場、売り手市場。

職を求めている人はたくさんいる。
提示の条件に納得いかなくても別に構わない。
他にも職を求めている人はたくさんいるのだから。
一丸となって、「提示の条件」に断固として拒絶できないのが現実である。
収入を得るために、生活をしていくために、妥協してでも選択をせねばならないこともある。

選択できること、他者によって選択された状況を与えられること。
その次の行動は、わたし次第なのである。


KAZU |MAIL