ふつうっぽい日記
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2012年06月28日(木) イライラの闘い方

逃げるか、留まるか。

危うきものには近づかない方がいい。
さて、イライラの主は危うきものか?

その主と闘う意味があるのか?
そもそも、闘うとはどういうことを「する」のか?

昔、会社勤めをしていた頃、ジャンケンで接客当番を決めるということをやっていた。
のほほんとした時代である。

わたしはそのジャンケンで負ける確率が非常に高かった。
一人負けということも珍しくなかった。

しかし、わたしはある時から流れを変えることに成功した。
つまり、勝率が高まったのである。
厳密には、確実に負ける率を減らすことに成功した。
5人でジャンケンをする時、4番目に負けることもあったとは思う。
しかしながら、総じてわたしは負けなかった、つまり、接客当番に選出されることはぐんと確率的に減ったのだった。
それは、他のジャンケンをするメンバーからも驚かれた。

メンバーの一人は、一人鏡に向かって練習しているのではないか?などと言っていたくらいだ。
全てが互角の勝負。勝負がつくことはありえない。

では、なにがわたしを変えたというのか。

それは、視点をずらしたからである。
ずらしたにも関わらず、一律の法則性があった。
それはなにか。

ジャンケンで出す順番を毎日同じにしたことである。
例えば、「グー、チョキ、チョキ、パー、グー、チョキ、チョキ、パー……」という感じに。
A→B→B→C→A→B→B→C…

A→B→C→A→B→C→という、「ABC」の繰り返しは、見抜かれやすい。

よって、わたしは
A→B→A→B→Cという流れを1セットにした。

実は、これには、このジャンケンメンバーとは無縁の「コーチ」の存在があったのだ。

たかだか「接客当番をジャンケンで決めて負ける傾向にある」という、どうってことない悩みを俎上にあげたのである。

この悩みを共有してくれたコーチこそ、我が夫なのであった。


闘い方にはセンスが問われる。
なるべくなら、エネルギーは消耗したくない。
消耗したとしても、簡単にプラスに転じるようなものがいい。

イライラと闘う。
自分の中で引き出された「イライラ」。
「イライラ」は、自分の中に位置している。
よって、直撃すると、自分自身が危うい。
さて、どうするか。

仮に「イライラ」をAとしよう。
すると、A1、A2,A3……というように、Aにもいろいろあることに気付かされる。
今日のA1は今日のA1でしかないのだ。
明日には、A1がB1に転化していることだってありうる。
であるならば、「今」この一瞬においてのみ、A1なのであって、「今+X」秒には、X時間後にはA1そのものが意識されないことだってありうるのだ。

意識されない自分は、自分ではないわけではない。
意識しない、意識から外す、何かに置き換えられてA1でなくなる時の、「自分」は、やはり「自分」なのである。

そうやって、移りゆくA1の中にありながら、一貫性を持つ自分という存在に希望を持ってみるのも策である。
また、Aというカテゴリーに分けたに過ぎない、A1A2というあれやこれやのサンプルをコレクションし分析することに意識を傾け、「Aというカテゴリー」であることを自分自身でまとめあげることができた、自分に「自信」を持ち、さらに、その「自信」に寄与した存在について歴史的に考察を続けるというのもよいと思う。

歴史的とは過去へのとらわれともいえようが、そこには自分自身で実験的にたどりついた「自信」があるのであるから非常に意味がある。

自分の存在の歴史的考察とは、家族観にも繋がっていく。

「自信」は、自分自身を知ることで自分の中に浮き出てくるものであり、それを「うぬぼれ」にしないために、それを発動させるにいたった存在、つまり、命を与えてくれた存在に感謝するプロセスが必要なのだろう。

「イライラ」「A1」という感情発動の成功は、ともすれば嫌われるべき、排除すべき意味に取られるが、内側に備わっている感情は、思いがけず、しかし、絶妙なタイミングで引き出されるものである。よって、「イライラ」「A1」を抱える容器的な「自分」にはコントロールできるような次元のものではないはずである。

よって、イライラと闘おうと決意を決めた瞬間に、イライラの生みの母として生きることを決意しよう。

そうかそうかと、「A1」の誕生を感情発動誕生日として祝おうじゃないか。
毎日がなんだかの感情誕生日。

母は何かと大変である。



KAZU |MAIL