ふつうっぽい日記
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2012年07月03日(火) それは、広がっていたからこそ

いい感じに「広がっていた」こころ。
だからこそ、些細なことでイラッとしてしまった。

ほどよく、少々「つっかえ」があったならば、その「つっかえ」が「些細なこと」の衝撃を緩和してくれていたかもしれない。

まったく都合のいい考え方だ。

いやいや。
「つっかえ」は、ちゃんと存在しているのだ。
ただ、それを気にしないように都合良く棚に上げているだけだ。

防衛や抑圧を全て取り除くことはできないし、その機能のおかげで「不安」から回避、一呼吸おけているのだ。

分かってはいるけれど。
この湿度の高めな季節が、わたしの中で引き出された不安定さを「頼もしく支えて」いるのだろう。

季節、自然は、無条件に「頼もしく支える」「ただそうある」ことをやるのだ。
そこには同情なんてものはない。

イラッとした感情に支配されているような今だからこそ、言葉にしてしまうこと。

「自然の恵み」
自然的資源の私有。

太陽は人間の干す洗濯物を乾かすために存在しているのではない。
法則性でもって移動する、しかも、暖かな光線を放つ性質であるからこそ、そういった立ち位置でそのことをやれているのだ。

暑い夏の、梅雨空が消えたワクワクするような夏の訪れを、わたしたちは確信している。
季節は移っていくものだということも確信している。
灰色がかったような一日だって、ピンク色のドキドキするような一日だって、同じ一日の長さであることは知っている。

やがて、いつかは死んでしまうことだって、わたしたちは知っている。

けれども、「閉塞感」とか「多様性」なんていう言葉を突きつけられると、「知っていますとも!」とワクワクとポジティブな気持ちを確信することをためらう。
「ためらう」という思いを持ちながらも、それを前面に出さない。
出せないのか。

「……多様性が叫ばれている……」
とは、よく耳にする、目にする表現だ。

「多様」であることを「多様」と括るという「見た目」での有り様をAとするなら、多人数のAという有り様を支持するという1つの現象に過ぎないとも思えてくる。
これは、近視眼的思考なのか、それとも俯瞰した視点から「引き」での視点ゆえか。
例えば1億人の全国民が「多様性が叫ばれている」と口を揃えて言うならば「多様性が叫ばれている」という1つの思考があるに過ぎない。


ある時、美容室で
「政治(家)がこうだからねぇ……(国に期待できない)」
とかいう言葉が放たれた。
その時はわたしもそのつぶやきに賛同していた気がする。

上から降りてくる方式や仕組みは、「ここ」にいるわたしたちが満足した方式、仕組みとは限らないということは「知っている」はずなのだ。

選挙に参加して(投票して)「政治(家)」を選ぶわたしたち。
その行方を、その後の現実になかなか結びつけて関心を向け続けることをやらなくなってしまいそうになるのも正直なところだ。

例えば、野球のチーム。勝った負けたというそれだけでも、一喜一憂する(できる)。
しかも、個人的に、あるいは集団的に、1選手を応援することは珍しいことではない。
チームの勝敗の一喜一憂。
「負けたけど、あの選手のあのプレーは素晴らしかった!」と追える様子、追い具合は、共有されにくくなったのかなと思う。共有するコミュニケーション自体が意識されないというか。
優勝した時は、「優勝セール」として企業が活気づくような感じ。
とはいっても、その土地柄で優勝じゃなくても町が熱くなるというか「それがこの土地の個性」と素直に前面に出すことをためらわず、他の土地からその土地にただ寄ったそれだけでその「土地の個性」を自然に共有したくなることはありうる。

といって、政治的関心に対して、一喜一憂がまったくないわけではない。
それは「問題」として例えばマスコミから発信される内容へ関心が向く。
マスコミは統計的なデータも伝える。
例えば、100人に対して行ったアンケート結果を円グラフにして伝える。

「使える」「使えない」
「支持する」「支持しない」
「あり」「なし」

簡単に一喜一憂をかき立てられる。

一喜一憂これ自体は、どうってことないよくある気持ちの作用だ。
特別なものではない。

「政策」となると、身近な生活に関わってくるはずなのに「問題」となった時くらいしか注意が向きにくい。(気がする)

ああ、そうか。
「注意が向きにくい」のは、「わたし」だ。
注意を向ける努力をするのは、誰か?
分からないときは、どうするのか?

分からない時に、分かろうとするための手段を「わたし」は知っている。
そして、その先にたくさんの「分からない」を解決する「答え」が存在することも知っている。
「わたし」一個人が「答え」を存在させることに繋げられる手段についても知っている。

のに。


焦らず行こう。

そう、30年前のことが今になって意味が分かることだってあるのだから。
「その時」、その時の流れについていけなくてもいい。
ちゃんと、せっかちな人がいて、「その時の流れ」についていってくれているはずだ。
「その時」、あの時の流れが分かればいい。
ちゃんと、忘れっぽい人がいて、「あの時の流れ」について耳を傾けてくれるはずだ。
時々、「その時」っぽさに、ついていくというのでもいい。
多くの人の「無関心」に、場違いなくらいにこだわるのもいい。
多くの人の「関心」に、疑うのも賛同するのもいい。
ころころと自分自身の考えを変えてみる練習をするのも、きっといい。


KAZU |MAIL