ふつうっぽい日記
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2012年07月12日(木) 言葉を置き換える作業

なんだか頭に残りつつも、時々浮上しては棚に上げられるということはよくある。
腑に落ちないこと。
いちいち引っかかったいろいろなことを腑に落ちるように持って行くことに集中するのは厳しい。
でも、それはある時、ふとつらつらと繋がっていくものなのだろう。

教育現場への教員以外の人材介入。
双方での探り合いは避けて通れない。
探り合いの途上に、悶々とした気持ちが膨れあがり、一人でそれを抱えていくのも悶々とするような時、その悶々とする思いを言葉として表出し、かつ、第三者に受け止めてもらえる「場」というのは意味があると思う。その第三者が、介入する現場は違っても同じ目的の人材であればさらに親近感を抱く。

どの仕事であっても、「初めて」という段階の人がいる。
すべての仕事が経験者のみしか募集しないなんてことはありえない。
人材が不足でありながら、離職率が高いとか知名度が低いとか職種としての試みが未熟な場合、経験が問われずに幅広く人材が募集される。

人によって、たとえば3年の経験を「まだ3年しか経験がない」と言うか「4年目にあたる」と言うかは違う。また、毎年、初心でもって、時の流れを経験として括ることを表に出さないということもありうる。
きっかけも、内面に突き動かされたものであるとか、周りから言われて仕方なくとか、「まぁ、〜でも」やってみるかとか、たまたま求人広告が目に入ったからとか様々だ。

同じ日本語を使う人間同士でありながら、伝わらない悶々とした気持ち。
一方で、以心伝心的に言ってもないのに伝わることの都合の良さなんてものもある。
今まさに電話をしようと思っていたとかメールをしようと思っていた時に、相手から同じアプローチが来る、なんてことはありえないようでありえる。
逆に「どうしていつもこのタイミングで」ということもある。
「間が悪い」というやつだ。
それでもそれがなんだか続くとありえないようでありえる、ということになる。

「こんなに話が伝わらない人がいるなんて」という悶々の気持ちの暴露。
その「人」が例えば公的な立場の人間だったりすると、なぜだか、憤っていく。
本能的なものだろうか。
「お役所〜」とか言うときに「ああ(たしかに)」と、はっきりしたものではないのに共感できるような感じ。

自分自身の気持ちや言葉もいろいろと変動、変容していくのだから、同じような変容システムを持つ他者に何かを伝える作業というのはそう簡単なことじゃない。
近しい「家族」であっても、近いがゆえに難しい。
「ああ(たしかに)」が他者向けだとすると、「ああ(またかよ)」は家族向けだ。
同じ「ああ」でも、(カッコ)内は対象とのかかわり具合でいろいろと変わる。
f(x):エフエックスの「(x)」のように。1とか2とかはある意味割り切れるが、めまぐるしく変動する言葉は割り切れないのが前提だ。

伝わらない人にどうにか伝えようと試行錯誤できるかできないか。
その時間を尊いものとできるかできないか。
できないなら、どうしてできてないのか。
男だからか女だからか。
公的だからか私的だからか。
古いからか新しいからか。
こういった「どうして」を考える時間を一時的に「停止する」ことは、時として自分自身を保つため、コントロールするために有意味ではある。
しかし、ある人が「停止する」期間、相手も同じく停止しているわけではない。

「これが原因(推定)で、こうなってしまった(悲劇的な結果)」というのが、悲劇的な情報として「お茶の間」に流れこんでくる。「悲劇的な結果」に近しい人たちと、「お茶の間」の人たちの関係は対(つい)ではない。「お茶の間」というのは人類全体である。大きな括りである。同じ括りの枠の中に、たまたま「悲劇的な結果」に近しい人たちという枠が出来たということだ。ここでいう「たまたま」とはある環境、状況によってはその結果が起きなかったであろう可能性があると想像されるからだ。別の言葉では、ある環境、状況にあったからこそ、その結果が起きてしまった。

しかしながら、日々、いや一日でもあちらこちらで大なり小なり、「結果」は流れ込んでくるものだ。にもかかわらず、ある特定の、その中で大々的に取り扱われてしまうことになった一つの「結果」が、「その時(←過去)どうして、そう(←今となって意識されたこと)しなかったのか」という視点から切り込まれることになる。

「いい人」「いい子」だって、他者への羨望や憎悪の感情を内包している。
「悪い人」「悪い子」だって、他者への感謝の気持ちを内包している。

「いい」「悪い」「伝わる」「伝わらない」「分かる」「分からない」
こういう「枠」があるのも、他者の存在があるからこそだ。
自分自身が関わるすべてに対して、言葉を置き換える作業に心を砕くことなんてできない。
ただ、たまたまであれ気になったあることに対して、そのことを自分の言葉で置き換える作業は意味がある。

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「頑張ろう!」は、ある方針のもと、内面で繋がった人から熱く込み上げてくる時に言語化されるフレーズに過ぎない。
「ナントカにやさしい」は、「ナントカ」が人の括り(例えば「女性」とか「子ども」とか)の場合、「ナントカ」側に抱いて欲しい、理想的な気持ち「やさしい」の潔い押しつけに思えることがある。
「頑張ろう!」とか「ナントカにやさしい」を発信しているのは誰なのか、何なのか。
受け止めたのは誰なのか、何なのか。
受け入れられないのは、どうしてなのか。

とはいえ、「頑張ろう!」とか「ナントカにやさしい」、それ自体は親しみのある言葉になっている。

なんだか頭に残りつつも、時々浮上しては棚に上げられるということはよくある。
腑に落ちないこと。腑に落ちないことも、ある「枠」の中にいくつも入っている。
そのいくつかの重みで、うっかり落ちてきて、なんだか収まっていく。
そしてかつての「枠」は、いつの間にか消えている。

ああそうか。
わたしは、いつの間にか、気付いたら消えているような「枠」の役割をやってきたのかもしれない。やってこれた、と言った方がいいかもしれない。
そして、その役割が意外と好きなのかもしれない。


KAZU |MAIL