ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2012年07月23日(月) 渦を言葉にしてみる

いくつかの「渦」が、時々巡っているからだろう。
空虚感のようなものを感じる。

こういう日もあるんだよ、という事例なのだろうと自分に言い聞かせてみる。

年を重ねるというのは、なんとも切なく、なんとも頼もしい。
切なさの後に必ず来る冷静で穏やかで頼もしい気持ちの波。

心が疲れているのだろう。
無意識の世界への退行、過去へのとらわれ、執着。
仮の実在への妄想的な予感。

かつて、わたしも「妄想族」なんて楽しげに自分のことを堂々と表に出していた。
「妄想」が遊べるのは、自分自身が正しい位置にいることがコントロールできているか、「コントロール」を意識しないでもいいレベルにおいてだろうと思う。
似たような感じとして、「バカか!」とこきおろすことを正当化できるとき、その表現に正しい怒りをこめることができるとか。

バカも妄想もわたしは好まない。
であるけれども、一面的にであっても関心を持った存在がそういった言葉で遊ぶことはありうることなのだろう。その面があるからこそ、関心を持たねばならないとか回避すべきだとかそういう決まりなんてない。

「渦」
それは、いろいろな意味での自分自身の埋没さのようなものが共通項のように思えた。
旅行中の不幸。
不幸の儀式では、社会性が育まれる。
そうそう、不幸の儀式に立ち会えるものではない。
もし、この不幸の儀式に対して、前向きであったならば、その後の儀式にも前向きでいられただろう。しかし、その当時は旅行の流れに流されることを平気で優先させることができる自分自身がたしかにいたのだ。
そして、自家用車の中での埋没。
密室が守られる空間。
その空間でわたしは自分自身の近くに存在していたモノとの別れについて打診された。
いや、正確には事後報告だったかもしれなかった。
モノは、所詮モノである。
想い出がこもっていたとしても、人間の命、存在には変えられない。
打診した主も「被害者」なのかもしれなかった。
機嫌をとるように操作されていたに過ぎないのかもしれなかった。
いや、機嫌をとるようにというのも思い込みであり、打診した主こそが真に倒れるべき存在だったのかもしれない。

心理療法的な本に、たとえば家族、たとえば夫婦とか母子で「面接」に行くが、「この人(子)が変なんです」と言っている側がなんだかの不安定さ、課題を抱えていた、というのはよく見る。

「病識のなさ」イコール云々という図式は強引過ぎるのだろうけれど、「症候群」であると理解できれば、別の種類の「症候群」であっても、連続したような仕組みにあるのならば、短時間でもそこにカテゴリーされることは後に理解できることなのかもしれない。
その「症候群」についての理解が乏しいために、偏ったイメージが強いために、ステレオタイプであるために、ばっさりとわざと慈しみのようなまなざしを向けられる空気。それすらも、「被害妄想」だとか「人間不信」だと括られると理解してしまう世界観にあって、後に繋がるあれやこれやの物語の披露もまたばっさりとわざと慈しみのようなまなざしを向けられる空気を引き寄せてしまうのではないかという脱力感。

その内部から出てきたわたしの感覚は、その内部を「ふつう」とする側からすると、やはり「ふつう」であり続けるのだ。その内部から出てきた、その内部を巡ったわたしの追体験したような感覚が、その内部を「ふつう」とする側にも連動して、もしかすると一緒に「こちら側」へ出てくるのではないか、という期待。それでも、その内部を「ふつう」とする側からすると、やはり「ふつう」であり続けるのだ。
この違和感を埋めようとするならば、この違和感を感じるわたしであってもそれを「ふつう」とするか、あの内部を「ふつう」とする側と同じく、ただたんに課題を抱えているに過ぎないとするかの選択に迫られている気がしてしまうのだ。

こういう自覚的な揺らぎにありながらも、たとえば心理療法的な堅苦しそうな偏っていそうな理論みたいな文章がするっと吸収されていくような感覚があるのが不思議だったりする。
なるほど、「揺らぎ」は、執着やら仮の実在やら妄想みたいなもののように、好まないものではないのかもしれない。
もっと、引いて見てみよう。
「揺らぎ」が執着やら仮の実在やら妄想みたいなものから生み出されるものだとすると、「揺らぎ」が柔軟な学びを支えているのだとすると、「執着やら仮の実在やら妄想みたいなもの」の存在あってこそ、ということになる。

つまりは、バカも妄想も「揺らぎ」に変容できるということだ。
好まないものの存在感や正当性を強調するというわけではなく、自分自身を変容させていく、学ばせていくためのエネルギーに変化するということ。

どう、自分自身を変容させたいのか。
発達させたいのか。
その方向性が見えない状況の言い訳に、執着やら仮の実在やら妄想みたいなものを好まないと言っているに過ぎないのだ。

未来なんて言えば、将来みたいな感じで、希望をこめたこれからについて前向きでいないといけないような気持ちになる。
これから3分後だって、いつかの未来なのだ。

1年後や3年後や10年後のビジョンをなんだか語りたくなって、表現したくなることだってあるように、なんだか語りたくもなければ表現したくもないということもあるのだ。

たぶん、3分後の未来くらいは予測できるのではないだろうか。
今、意識されている渦は、3分後には忘れ去られていることもある。
何十年か前から形取られている渦であるにもかかわらず、いまだに気づかれていないということもありうる。

今日は、揺らぎからでも学べるのだということを学ばせてもらったとしたい。


KAZU |MAIL