ふつうっぽい日記
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2012年07月25日(水) ある渦に関する自己分析

「また、みんなで旅行に行きたいよね」
と、友人Aが言っていた言葉。
「ほんとう、行きたいよね」
と、友人Bが言っていた言葉。

その狭間で、「行きたい」という気持ちが引き出されなかったわたし。

見た目的な理由としては、
「ご主人が厳しいの?」なんてことがあるのかもしれない。
また、
「専業主婦だから、自由なお金がないのよね?」
とか。
これは、わたしの被害妄想である。
たんなる思い込みのシチュエーション。

友人A、友人B、そして友人C。
彼らとわたしを含んでは、一つの括り的なグループがあるような感じだ。
しかしながら、友人A~Cの3人とわたしの間には隔たりがある。
引きでみれば、それぞれに隔たりは存在するものだと思う。

たとえば独身期間のズレ。
結婚時期の違い。

既婚者は独身者からすると、何かと「誘う」という行為はためらわれる。
それまで一人のスケジュールのすりあわせでよかったところが、生活を共にする、実家家族とは違う夫婦という括りの存在によって何かしら膜を作ってしまう。
その膜は、たしかにこちらがわ、つまり既婚者側も納得していることではある。

独身者は「つるんで」出かける頻度が高い。
しかし、その独身者も減っていく。
一括りでは同じ既婚者となった環境で、
「また、みんなで旅行に行きたいよね」という提案。

たとえばこう想像したりもする。
同時期に既婚者となり、同時期に子どもを持つ。
これは、想像するだけでも何やら楽しげに映る。

婚姻の時期が違っても、一括りの共通事項では子どもがいないという環境は、行動を起こしやすいとも考えられそうではあるが、実のところ、非常に微妙なのである。
と、わたしは思ってしまうのである。

たとえばこう想像したりもする。
60代とか70代のグループ。
これは、想像するだけでもとにもかくにも行動しておきたくもなりそうな気もする。

わたしは一括りのグループの中で最初に既婚者となった。
以降、間が空いた。
その間に、当時独身者たちで既婚者を排除しての旅行は何度か実施されている。
一括りのグループであるということに関しては排除はされておらず、たとえばお土産を送ってくれたりなんていう心遣いはあった。
子宝祈願的な御利益アイテム的な土産も時として送られてきた。
今となれば、ありがたいアイテムだったのだなと受け入れられるが、当時は実のところ複雑な心情を掻き出されたものである。

見た目、子どものいないという共通項。
一括りでは共通項であるけれども、それぞれに流れる心情はとても複雑なのだ。
リアルタイムに表には出さないまでも、何年かの時を経て、「実は流産したの」といったことが語られることもありうる。


「また、みんなで旅行に行きたいよね」
と、友人Aが言っていた言葉。
「ほんとう、行きたいよね」
と、友人Bが言っていた言葉。

その狭間で、「行きたい」という気持ちが引き出されなかったわたし。

友人A~Cの中に「旅仲間」的な精神が基礎付いているのだろう。
旅的想い出は、わたしは共通する一括りのグループに存在しつつも、共有できないのである。
おそらく、そのグループでの集いで、わたし以外での想い出が語られることを、わたしは避けたいと願っているのだ。

「あなた、いなかったっけ?いたような気がするけど〜」
という言葉をなんだか前向きに楽しく面白く私は受け止めて
「いないのにまるでいたかのような感じがするでしょう」
「ほんとう」
「ほんとう」
「ほんとうだね」
「あはははは……」

といったやりとりがかつてあった。
一度ではなく、何度か。
その時の私には受け止めてこれた。
その時の私は、そういう私でもって、「わたし」を支えていたのだ。

「あはははは……」の語尾は実はとても切ない世界に繋がっていくのだ。

切ない世界とは、棚上げされる空間だ。
抑圧の世界だ。

その「棚」自体は、なくすことはできないし、ないと「わたし」を統合できない。

「棚」からあれやこれやが落ちてきた2年前。
落ちてきたものを再び「棚」に戻すことは苦しい作業であり、無駄な時間を過ごすことになる。

棚上げされていた時の「わたし」を支えていた、「私」が優位だった時代。
「私」と関わっていた人たちとの再会。
その関わっていた人たちにも「私」や「わたし」があることを忘れてしまう。
忘れている状態が「仮の実在」といえるだろうか。

「わたし」だって、他の誰かにとっては「私と関わっていた人たち」の一人なのだ。

括られることや偏見に、わたしは敏感になったといえる。
その敏感さが支えになり、力になり、「仕事」をしている。
するようになった。
括られることや偏見を反射させるわたしの勇気が、共通する一括りのグループという場の設定において、試されているのだろう。

「大丈夫?」だと聞かれたら
「あはははは……大丈夫じゃないねぇ」と、「わたし」ならいいそうだ。
「あなた、いなかったっけ?いたような気がするけど〜」と聞かれたら
「あはははは……それは気のせいだねぇ〜わたしはそこにはいなかったよ」と言うだろうか。

まぁ、聞かれても聞かれたことに敏感に反応するかどうかも分からない。
自分にとって都合の悪いことは、都合の悪いのだという空気を自分の中から、自然に存在感で引き出せると楽なのだろう。
まぁ、意識して楽になろうと頑張らなくてもおそらくいいのだろう。

一般的な傾向は平均に過ぎない。
しかも平均をやっているだけの存在なんていうものはないのだ。
無難に生きることは一般的な傾向に流されることでもないだろう。

まぁ、ここまで巡らせて、一括り的なグループ的な「つるみ」行動は、今のわたしはどうも好まないらしいということが浮き出てきたような気がする。


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