ふつうっぽい日記
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2012年07月26日(木) 「スゴイ」「凄い」

「すごいよね」
「スゴイよね」
「凄いよね」

ふと、こみ上げてきた怒りのような感情に向き合ってみようと思う。
なにか具体的な出来事が起こったばかりでその気持ちをどうにか収めようと試行錯誤する、というのとは違う。
曖昧な、もやもやとした気持ちの代表が「すごい」から繋がる「怒り」なのだ。
具体的ではない曖昧な気持ちは果たして厄介なのだろうか。
具体的ではない原因が不透明な曖昧な気持ちに支配されてしまうことは、日常的であるといえそうであり、この気持ちから繋がる感情との一つの向き合い方の試行錯誤を試みようと思う。

インターネットが普及したのは今に始まったことではないけれど、いわゆる「ホームページソフト」を個人が準備して、FTPソフトも確保して、ホームページの領域も確保してということ無しに、各個人が無料で匿名でなんやかんやと思いや気持ちを公開することは、珍しいことではなくなった。
ホームページを立ち上げた時は、その内容はさておいてもただそれだけでも何かスゴイことをやっているのだという気持ちを簡単に周りに抱かせたものだった。わたし自身もそうだった。
内容ではなくて、器、外側、飾り、仕組みを操作しているそのことが尊敬だった。

今年2月、3月に誕生日だった友人等にミニ冊子(1枚の紙を使って本のようになっている)をバースデーカードの代わりとして添えた。わたしとしては、その内容に気持ちをこめたつもりだった。
しかし、受け取り手に委ねられる現実を知った。
内容ではなく、仕組み、仕様、冊子化されてある、わたしとしては単なる飾り的などうでもいいことに彼らは賞賛的な気持ちを持ち、そのことを伝えてきたのだった。
わたしはショックだった。
内面を見てくれていないような寂しい気持ちになった。
「そこかよ!」と、ツッコミを入れたかった。

しかし、思えば
「可愛いね。その服(バッグ、靴、時計……)」といった反応に、わたしは敏感ではなかった。
であるからこそ、わたしは他者に対して
「可愛いね。その服(バッグ、靴、時計……)」といった反応を言葉にして伝えることはしてこなかった。
妙に意識すると、そういった反応を言葉にして伝えて来られた時、
「ああ、この人は外側を褒めることで精一杯なんだ……」
「内面(中身」は満足するものではなかったんだ……」と読み取ってしまうのだった。

贈り物というのは難しいものだ。
ゆえにその行い自体を消滅させていく、習慣を衰退させていこうという気持ちが起こるのも自然なのかもしれない。
相手が喜びそうなモノを選ぶことを優先させるのか、相手が喜んだり驚いたりするイメージを優先させるのか、自分が好きなものを共有してもらう気持ちを伝えることを形にするのか、実際にはいろいろであり、毎年同じ気持ちとは限らない。

究極の気持ちは、モノに執着しないのかもしれない。


「内容ではなく、仕組み、仕様、わたしとしては単なる飾り的などうでもいいこと」
の始まりは、「どうでもいいこと」ではなかった。
「ホームページを立ち上げた時は、その内容はさておいてもただそれだけでも何かスゴイことをやっているのだという気持ち」が盛り上がっていた。
その盛り上がりに同行した、驚きとともに巻き込まれた観客的な存在、見守る立場としては、
「これからのさらなる可能性」のようなことに期待を抱いてしまうのも自然なことなのだろう。


「すごいよね」
「スゴイよね」
「凄いよね」

活字にするといろいろな表現の仕方がある。
絵文字や顔文字を伴うこともできる。
公開型コメントの他にも各個人のケータイメールであってもその表現は「活字」をもって、気楽に発信される。その「活字」書体の種類は機種依存だ。

書体に個性が出せるのは自筆である。
パソコンのソフトで何文字か自筆データをスキャナで読み取らせて、自筆フォントを作るというものがあった。これはなかなか面白いなと思ったが、「引き」で見ると少し切なくなる。
それは手書きのない年賀状に似ている。
本人が作成していなくても本人が作成しているように思えるし、本人が作成しているのに本人が作成していないように思えるからである。

ここで我が家の年賀状作成を考える。
わたしはわたし自身がそういったレイアウト作業が好きであるという理由から、夫の分まで作成し、一言自筆メッセージを書けば完了というところまで準備している。
夫に関しては「メッセージが思い浮かばない」という理由でそのまま投函されることも珍しくない。
誰に年賀状を送るかのリストは、毎年あらかじめ提示していて更新はしているのだけれど、メッセージは書かないが事務的に出すか的な人もいるのだ。
これはちょっと改善したいところだ。
つまりは、わたしが夫の分まで作るという仕組みを改善するという点において。



「すごいよね」
「スゴイよね」
「凄いよね」

活字にするといろいろな表現の仕方がある。
音声にすると一様である。

わたしは好みとして「スゴイ」「ムリ」とかいうカタカナ表現を好まない。
好まないけれど、そのことを浮き出すために使うことはある。
人間の好みとして好みの人が、わたしの好まない表現をしてきた時。
心身が偏りのある状態にあると、ただそれだけで不快な感情が噴出することも珍しくない。
表現の送り手にはなんの悪気もない。よかれと思ってという意識すらない。

ある種の「こだわり」の傾向度合いによって、デジタル処理された書体から受ける影響が身体的に、精神的に「痛み」を伴うことがあるというのを何かの本で読んだ。よって、そういう場合は「痛み」を伴わない書体に変換する作業をすることによってコントロールするのだそうだ。
自分自身への支援である。
自分自身をコントロールするための試行錯誤である。


「文字は残るけれど言葉は消える」
というのは、以前勤務していた職場の管理職が言っていた言葉である。
当時のわたしは文字として記録を残すことにこだわっていた。
文字はいつでも読み返しができ、解釈も変容していく。
紙資源の節約という点でも言葉による報告を誘導されたような状況もあった。
音声言葉は録音、録画されない限り残らない。
音声言葉による報告が奨励されながらも、その時間を確保することは厳しかった。
音声言葉を機能させるためには受け手の時間を独占する、拘束する必要がある。ただでさえ、多様な作業に時間を取られてしまうのに、さらにまた時間を取られるのは厳しい状況である。



具体的ではない原因が不透明な曖昧な気持ちに支配されてしまうことは、日常的であるといえそうであり、この気持ちから繋がる感情との一つの向き合い方の試行錯誤。
具体的ではない曖昧な気持ちは果たして厄介なのだろうか。
文頭に掲げた問いである。
試行錯誤することそれ自体が厄介であるのならば、厄介なままである。
厄介なままでは収まりがつかないのならば、試行錯誤することは一つの向き合い方、収め方といえるだろう。
何をどうやって試行錯誤するのか、そのものも試行錯誤なのだから、決まった方法なんてないのだ。

ひとまず、オチが付けられないというオチがついたようなところで収めることにしよう。



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