ふつうっぽい日記
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2012年08月01日(水) 出たとこ勝負の試され三昧

意思疎通が難しくてイライラした時どうするだろう。

まず、意思疎通する、しなくてはならない対象(相手)について考えてみる。
「しなくてはならない」関係は、結構限定されてくるのではないかと思う。
親子とかきょうだいとかお金がからまない関係、経済活動が関係すること、基本的人権が関係すること。基本的人権というのは、たとえば当事者の権利によるたとえば福祉的な手続きを進める状況、事件等で裁かれたり裁いたりする状況など。

ところで「体罰」といえば、教員等の指導者によってなされる行為がステレオタイプ的にイメージされる。
教員は「経済活動が関係する」活動だ。
教員という立場でも
「転職するにもつぶしが利かないし仕方なくお金のためだと思ってやっている」
「親が教員をやっていて選択の余地がなく仕方なく教員になったに過ぎない」
という人だって残念ながらいる。

わたしは二十代の頃、幼稚園と小学校の教員免許を取得したのだけれど、上記後者のつぶやきを実際に発した場面に思いがけず立ち会ったことがある。
聞いた話では父親が厳格な高校教員で、子どもには教員の道を進むことしか許さず、父親と同じ高校教員ではなく小学校教員を選ぶということで抵抗をしたのかなと思われた。大学入学は1年浪人したが、教員採用試験は厳しい状況の中、一発合格を果たした彼女。
人間性的な面では、カウンセリングマインドで冷静に受容しつつも自分自身の考えをしっかり持っていて、親から教員になるように言われたと言いながらも、客観的に見ていたわたしとしては彼女が教壇に立つ姿を簡単に想像することができた。

意思疎通する、しなくてはならない対象(相手)に戻る。
その対象が「障害者」という状況は、必ずしも誰もが関わらなくてはならないものではない。
なんだか苦手だという気持ちを優先させて回避することは罪にはならない。
極端な場面として「優先席」の近くには接近しないとか。

意思疎通の試行錯誤の途上では、「難しさ」からくるストレスに支配される。
それは育児でも当てはまるだろうし、親との関係にも当てはまるだろうし、上司と部下にも当てはまるだろう。
対象が乳幼児の場合は、日本語の学習が途上ということもあって、その試行錯誤にはかなりな「エネルギー」が注がれることになる。
親とか上司なんていうのは、日本語自体は通じるはずなのに意思疎通が難しかったりする。当然、試行錯誤には「エネルギー」が消耗される感が漂う。

エネルギーはストレスを支える頼もしい味方だったりする。
エネルギーもストレスも、それ自体は善でも悪でもない。
いくらでも変容していくものだ。
愛しすぎるストレス、愛されすぎるストレス。

中学時代の社会科の教員のことを思い出した。
その教員Kは
「だって、おふくろの遺言がお前教師になれだったんだから。これは仕方がないことなんだ。オレに文句を言われても困る」と時折言っていた。
この教員は教科指導力は生徒からしても謎を極めていたが、生徒指導的な面では評価されていた存在だった。とにかく授業は脱線(世間話)が中心で、教壇に腰掛けるようなもたれかかる姿勢で、視力が悪いにもかかわらず眼鏡をかけておらず、教科書の文字を見る時は鼻がつくくらいに近づけていた。


意思疎通が難しくてイライラした時どうするだろう。
教員Kならどうするだろう。


○○という仕事や任務や業務。
もしかすると、「仕方なく〜に言われたからやっているに過ぎない」という姿勢が、自然で絶妙な「引き」の姿勢を作っていけているのかもしれない。

かつての諸事情による退職の場面で
「また、こっちに戻ってきてね(是非この仕事をこれからも続けてね)」というメッセージがわたしの今を支えているなぁとも思った。


KAZU |MAIL