ふつうっぽい日記
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2012年08月21日(火) その時にその場所が

心理学の理論的な文章に浸っている効果(せい)だと思う。
飾ってもないのに和室の壁、今、こうやって入力をしているパソコン側とは真逆の壁に、「曼荼羅」(まんだら)が飾ってある気がして、何度かその場所をついついふり返ってしまう。
詳しいことはまだ知らないけれど、学術的、教養的にそういった宗教性を秘めた芸術的作品にわたしは関心があるのだと思う。

ポストカードの絵だったのか、寺院見物のパンフだったのか。
しかるべき場所にしかるべき僧侶のような人間が収まっているような図。
しかるべき場所の広さは全体としてのバランスを保ちながらも、一様ではない。

他者から指摘されると苦しいが、転勤によって何度か引っ越しをしてきている。
夫に比べたら頻度は低い。
転勤による引っ越しは結婚してからの経験だ。

転校を伴う引っ越しは実質わたしにはないが、妹にはある。
わたしは中学校から別の地区で暮らすようになったが妹は小学校の途中だった(といっても学年末までは在籍していたが)

暮らすための空間。その場所、その規模。
「住む家を選ぶ」意味というのは、持ち家に限って有意味である、という考え方は偏っているというのは分かってはいる。
しかし、転勤によって「住む家を選ぶ」という時。
意味に浸っているゆとりはない。
交通の利便性、家賃、そして、広さ。
転勤先の土地についての具体的な情報が得られないというかイメージが繋がらない経験は今のところ、名古屋の一度だけだ。
高知県以外の県は出張で行ったことがある、というのは夫の経験だが、行ったことがあるからといって「もしもここに住んだら」という想像なんかはしないものだろう。
仕事が目的で行って、せっかくだから観光をしよう、なんていうのはもしかするとあるのかもしれないけれど。

「相応しい時に相応しい場所が与えられる」というフレーズを何気に見かけた。

見知らぬ土地に対して、「相応しい場所」と結びつけるには時間を要する。
しかし、必ず何かが時間を経ながらも繋げられるものだということをわたしは信じられるようになった。
自主的に望んでそうなるというわけではない、急な転勤辞令。
そのものの「受容」は後回しにしつつ、現実を目の前にすると進めなければならない多数のタスク。
タスクをこなしていくしかないことに集中することで、「受容」も裏で促されていっているのだ。
何事も「急な」こと、「いきなり」なことはショッキングなのである。
衝撃なのである。

ゆとりがあるときは、衝撃の意識が緩やかに感じられる気がする。
では、ゆとりがあるというのはどういうときなのか。
こころが安らいでいる時なのだろう。
でも、この安らぎを頑張って意識しようとするとこころは焦ってしまう。
衝撃の意識が緩やかに感じられて、やるべき行動に自然に移せて、ホッとして、ふり返ってみてから「これはゆとりがあったからなんだ」と分かることなのだろうと思う。
となれば、今、安らぎを求めようとしてなんだか捕まえられないような落ち着かないような気持ちの波の中にあったとしても、いつか訪れる「ホッとする」ひとときが意識されれば、ゆとりに繋げられるのだろう。

「ホッとする」時間。
「ホッとする」行動。
冬に温かい飲み物を飲んでホッとしていたっけ。
ああ、今は暑いから温かい飲み物は避けているなぁ。
お湯を少し沸かそう。
そして、温かい飲み物を自分のために入れよう。
きっと、ホッとする時間に繋がっていく。




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