ふつうっぽい日記
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2013年03月29日(金) あの歌たちを巡らせる物語

事ある毎に、ふとした時に、主に巡らせたくなる歌が2つある。
一青窈さんの『ハナミズキ』と今井美樹さんの『プライド』。

わたしの中での「師匠」は何人もいる。
心の支えになっている「師匠」も何人かいるがその中のAさんという師匠との心の交流を想起する材料になっているのが2つの歌である。Aさんにとってわたしは、たんなる通行人の一人だ。
例えば、本の読者の様に。

どういう流れでそうなったのかは今となっては分からないし、そもそもそれは「心的事実」ではあるのかもしれないけれど、「私」の幻想だったのかもしれない。それくらいな微妙さ、曖昧さの中にありながら、多様な感情をその歌達は「私」の中から引き出してくれた。
「引き出してくれた」と表現するからには、感謝の気持ちが含まれているということ。

思いがけず、引き出されて苦悩の闇の中で何かと対峙したり、乗り越えたりせねばならないということもありうる。現に、今となっては感謝の気持ちで括られるそれらの歌から、憎しみの感情が掻き出された。感謝すべきともいえる対象にまでその感情をぶつけるという過程も通過させた。

今も尚、その過程の中にあるのかもしれない。
それでも、「感謝」として括ることのできる段階にあるということから、「私」は発達したのだろうと信じたい。いや、確信していいはずだ。
「信じたい」「確信していいはず」と揺れ動くときの主体は誰か。
「私」なのか?
いや、多分、違う。
「わたし」なのだ。
「私」が揺れずにすむために「わたし」があれやこれやと揺れるのだろう。

「私」と「わたし」の出会い。
「わたし」の誕生。

そうあってもいいと考える「わたし」
確信する「わたし」
間違いを畏れない「わたし」
その後を冷静に分析する「わたし」

「私」はとても弱いのだ
ただそれだけの存在だけでは

それを頼もしく支えるのが「わたし」なのだ


「師匠」にとっての例えば「僕」がそうであるように


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女子は何かと難しい。
例えば「私」「わたし」どちらも同じ発音をするから。

男子は「私」「僕」「俺」とかそれぞれ違う発音。
「僕」を使う人は「俺」を使わないのかも知れないけれど。
少年時代の「僕」から「私」を誕生させる時、「俺」と「私」を折り合わせる時、多分、そんなに難しくないのだろうなって思う。

仕事の時、フォーマルな時「私」
プライベートの時、「俺」「僕」
切り替えがうまくいきそうでうらやましい。

いつでも「私」な女子は、男子に憧れる。
「僕」って言いたい。

「私」ともう一人の「私」を共存させること、もう一人の「私」たとえば「わたし」の存在を認めるということ。

「わたし」の誕生は、「私」と同じ時だったのか?
なんて考えてみた。
でも、分からない。

「心的事実」かもしれない、幻想かもしれないと揺れるのと同じくらいな微妙さがある。

でも、分からなくたっていい。

分からない時は、素直に分からないと伝えればいい。
察してみてもいい。
想像しても多分いい。

でも、時々、微妙な存在感な「わたし」を意識してみると「私」の孤独感とか見捨てられ感みたいなものから解放される。
孤独感とか見捨てられ感みたいなものも、微妙な存在感なんだけれど。

たしかな存在は「私」だけだ。
でも、微妙な存在感なあれやこれやのおかげで「私」は確かに存在することができている。
微妙な存在感のあれやこれやのひとまずの括りを「わたし」にしたいのかもしれない。


ーーーー


「自分や自分の周りに起こることは、偶然ではなく、必要があって起こっている……」
「すべての鍵は自分自身に」
「自分自身を知ること」
「前向きに歩くことによって、様々な出会いなどが準備され、不思議な縁ができてくるはず」


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第二章の展開は、さて、いかに。
不思議な縁はどう繋がっていくのか。
確かな繋がりの音を聞いた今日という日。

明日はわたしの誕生日。
予告としては、助走としては、なかなか恵まれている。

活躍の40代が間もなく始まる。


KAZU |MAIL