ふつうっぽい日記
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2013年04月12日(金) |
熱さと甘さの間で紡がれた時間 |
「私は、熱いコーヒーが大好きで……」と、彼女は言った。 そして、彼女は自宅のコーヒーメーカーの温度調整の仕組みについて触れて、 「だから、熱いうちに早く飲んでください!」と私に勧めてきた。
彼女が我が家へ来たのはそう昔の話ではない。 その日は、なんだか眠気が漂っていて、わたしは二人分のコーヒーを立てながらも一足先に彼女の感覚でいう熱いコーヒー、しかも、ミルクでぬるめに仕上げたものをすでに飲み始めていたのだった。
彼女は思ったことだろう。 熱いコーヒーが私は飲みたいと。
わたしにとってはコーヒーは熱くてもぬるくてもどうってことがない飲み物だ。 しかし、一方でこだわって飲む人に憧れたりもする。
熱いコーヒーから始まったそのひとときは、お茶、甘めのコーヒーへと進んだ。
その間、3時間半くらい。 その日は午後から天気がよくなり、結構気持ちも開放感に溢れて、結果としてパンドラの箱をお互いに開けたようなところがあったとも思える。
カフェインの過剰摂取だからか、たんに眠るタイミングにのれなかったからか、昨晩は浅い眠りだった。実際、3時半くらいに起き上がって、胃薬を飲んだ。 さらに思い出せば、数日前、今朝以上にほとんど眠れていない一日があり、翌日はだるい一日を過ごした。 その日に比べると、昨日のそれはまだ眠りは実行できていた。 眠れていなかった一日の、その翌日はとても深いに眠りにつけた。
そう考えると、昨晩の浅い眠りの方が微妙に辛いのかなとも思えてくる。 そこそこだるいが、そこそこ動けるという中途半端な感覚だからだろう。
これはある種の「ボーダー」ともいえる。 病気とか障害ではないものの気がかりなラインにいるそれ。
今、少し睡魔がぼっそりと来た。 まだらな睡眠なのでまだらな眠気が引き出されているのか。 ぞわんぞわんとする耳の奥でのあくびの感覚。 鼻が膨らむ。 ラジオの声は聞こえるが耳の中には入ってこない。
そして、じわりじわりと少しずつ昨日の余韻の言葉がめぐる。
「ある意味、燃え尽きていたのかもしれない。 自分を励ますように、まったく同じ今日はない。 明日は明日の風が吹く」
熱さと甘さで紡がれた時間。 過去のあれやこれやを再構成する言葉の噴出。
そういえば、ここ1,2週間の間で「再構成」というキーワードを異なる本やらラジオだったかで結構拾い上げた。 漢字で「再構成」と書くと、元の何かがあって、違う言葉で置き換える作業のような感じで、元の何かがあるのだから、一から何かを創造するエネルギーは必要としないから、軽い感じで進められるようなイメージを持ってしまう。
しかし、だ。
「元の何か」というのは、過去の産物であり、その過去と向き合うというエネルギーが必要になる。
これは、結構、しんどい作業じゃないか。
そうか。そうか。 それで、疲れたのだ。
それらの「過去」のあれやこれやと再び、三度、もっともっとおそらく向き合っていくと思うと、ぎょっとして、へこたれて、吐きそうにもなる。 が、ここは冷静に巡らせようじゃないか。
「過去」のあれやこれや。 実際は再構成をすでに何度も何度も人を変え、こなしてきているじゃないか。
もっともっと、巡らせてみよう。 再構成を何度もやってきたというけれど、そのいくつかは同じ様などちらかというとペラッとしたような再構成と名付けるにはもったいないようなものだったのかもしれない。
もっともっと、巡らせてみよう。 再構成と名付けるにはもったいないようなものだった時の後味。 味が残るほどのものでもなかったような気がする。 咀嚼できてないような気もする。
もっともっと、巡らせてみよう。 心当たりのある、身近な再構成の後味。 「元の何か」の後味に近いのではないか。 近いけれども、追体験を出来ている感じの。
で、今のわたしはどうそれを収められているのか。
今後も再構成をするのかもしれないけれど、エネルギーはそんなに消耗せずに済むかもしれない。 たぶん、そうだろう。 そんな気がする。
なんだか、もんやりしてきたものがはっきりともんやりしてきた。 ラジオの声も聴き取れて、入力作業を進めながらも、適度に相づちをうったり笑ったりしている「わたし」がいた。
15分間、食後にまどろむのは健康に、特に心の健康にいいらしい。 そして、近頃は五月病ではなくて四月病と呼ばれて、新しい出逢い、人間関係に気を張り、エネルギーが消耗されると言われているらしい。
これもたった今、ラジオから聴き取った内容だ。
ああそうか。 熱いコーヒーが好きな彼女は4月、人間関係や場に適応しようとしている途上だ。 そして、わたしは実質、2ヶ月間は休業。 期待や不安の入り交じったエネルギーも、わたしの「再構成」のエネルギーにブレンドされたのだろう。だから、「再構成」のエネルギーにしてはなんだかちょっぴり重く感じたのかもしれない。
再構成と名付けるにはもったいないようなものだった時の後味のことまで、引っ張り出したのだろう。
エネルギーにはストレスも含まれる。 人の話を聴く、しかも自分自身の話も連想的に語るという場。 しかも、「枠」のない、その紡がれる時間には、フレッシュな何かがいろいろと行き交う。
「なんだか、バーッとしゃべっちゃったね。 お互いにね。」と言って、笑いあった。 笑い合えた。
だから、それでOKなのだ。 その時間そのものは、プラスもマイナスも交えながら、意味のあるものだったのだ。 今日という日が、心や精神とかそういった深みに影響するような領域ではなくて、あくまでもエネルギーを調整する「身体」の領域のバランスを取るという動きをする日なのだ。 身体のバランスを取るのは、横になることかもしれないし、適度に動くことかもしれないし、太陽に当たることなのかもしれない。そこのところがまた曖昧であるところが、実にうまく出来ている仕組みなのだろう。
さて、15分間のまどろみを楽しもう。
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