ふつうっぽい日記
もくじ過去未来


2013年04月24日(水) ざっくりな話

見通しが持てないということは、疲れるのだということを実感。

ざっくり9時から始まる支援。

ざっくり週2回程度ということもあって、時間割など学習活動の詳細情報が入念に準備されないということに関して、今となっては不満を抱えるということはほとんどない。

かつては、大いに不満であり、それを解消すべく鼻息荒く厚かましい行動に出るということもあった。それは、偏った先入観や理想や期待があったからこそである。
先入観や理想や期待を持つことそれ自体は、悪いことではないし、むしろ当たり前なことである。
その鼻息の荒さに通行人的な人たちは「さすがだ」とか「偉い」とか「素晴らしい」「スゴイ」「やる気に満ちあふれている」と言いたくなるのだろう。不満や批判のパワーというのはスゴイのだ。そう考えると、「たまたま」「○○さんの紹介で(しぶしぶ)」という受け身的な状況がきっかけにもかかわらず、たまたま関わることになった人たちからのメッセージを受け取り、自分自身を広げる活動として意味づけ、続けているという姿勢はスゴイ。

今さらだが、個人的に「スゴイ」とカタカナ表記する表現は好まない。
あえて、好まない言葉を使うことで、「わたしにとって好まない状況」をやり過ごせるようにここは努力してみよう。

話を戻そう。
教室に入ると、体操服に着替え済みの子等。

??
体育、あったっけ?

時間割は、職員室の入り口に一斉に貼られているというのがふつうなのか、たまたまの縁で出向く施設はそのようなシステムにある。
そう、時間割を知りたければ、ここを見ればよいのである。(ということに、意識的に活用すべきものとして、気付くに至るまで時間を要した。今となっては。)

その日一日内の時間割変更というのはあり得ることは経験済みだが、聞くと(子どもから)「○曜日の体育が●曜日に変更になったから、○曜日が××になって体育はないの」とのこと。 (複雑な公式!)
状況は理解したが、前方黒板の時間割表示は、「××」のままである。
もはや、その前方の時間割の情報の価値、主体的に行動を促す機能は失われている!

しかも(←被害者目線である。)、「算数」は、このところの「ふつう」は、習熟度別に分けられた特別クラス編成で活動するのであるが、この日は所属学級で「テスト」しかも算数一色ではなく、漢字のミニテストから始まり、なんと2枚の算数のテストをこなさねばならなかったのだ!

ざっくりとした流れでは、「算数」の時間は、
漢字のミニテスト→1枚目の算数テスト→2枚目の算数テスト
ではあるが、詳細に状況を説明すると、テストは一気に配布されるのではなくて、終わったら前方にいる教師に提出して、次のテストを受け取るというものだ。
このように状況を書けるのは、一連の「算数」の時間を終えたからこそである。
つまり、支援者としても見通しが持てていなかったのだ!
思い込み、先入観では、「テスト」は1枚である。

この日の「ふつう」や「いつも」とは違う、「算数」の時間が始まった。
気ぜわしい。

出た!

「静かにしなさい!」
「静かにできない人は廊下に出しますよ!」



ちょいと待っておくんなまし。

そうなっちゃう「結果」にはその背後に必ず原因があるのだ!

ここでPちゃんに視点を置こう。
時間を巻き戻す。
Pちゃんは「算数」の時間、所属学級でテストのひとときがあるということがすぐには意味が分からなかった。つまり、「ふつう」の「算数」のように、教室から移動して、「いつもの」教室に向かった。

わたしは「テスト」とはなんとなく空気的、雰囲気的に把握していたが、その「テスト」が移動教室先で実施される(配慮された)可能性もあると思い、Pちゃんの行動を信じて、後を追った。

一番乗りのPちゃんである。
当たり前だ。

「教室でテストがあるんだよ」と解説して、一緒に戻る。

↑と、この1行では時間的な感覚がはぶかれているが、5分程度、
Pちゃんのすべき次なる行動(つまり教室に戻ってテストを受ける)を受容するための「儀式」的なひとときを見守った。
今となれば、Pちゃんの元へ即座に担任が鼻息荒く、駆けつけなくてよかったと思った。
その鼻息には不満や批判が含まれている可能性が高いからである。
大人同士のそういった鼻息は、適当に流すことができるが、対子ども、しかも、不安定な傾向が共通理解されている子には爆風になるのである。


さて、教室に戻ると、すでに机の上に漢字のミニテストが置かれていた。

「分からん!」とP氏。

6,7分程度、試行錯誤の声かけをする支援者。

やがて、担任が
「漢字は難しいかもしれないから、これを」と、漢字ミニテストは未記入のまま回収され、算数テストを渡された。(2枚算数テストがあるとは知らず!)

周りの子等を見ると、

漢字のミニテスト→1枚目の算数テスト→2枚目の算数テスト
(この時点では、漢字テスト、算数テスト)

という流れをこなしたと思われる子は、読書タイムを満喫していた。
Pちゃんも読書タイムは大好きな時間である。

算数テストを受けるP氏。
しかしすでにやる気は9割消耗していた。(と支援者には感じられた)
算数移動教室へ行き、儀式をして、戻ってきて、漢字テストをするかと思いきや、算数テストを受けるということの納得、理解のエネルギー。

自分自身の守り、回避したいという気持ちが外見的身体症状として表現され、眠気がP氏を囲む。

「給食を食べた後じゃないのに眠たくなるなんてことはないですよ!」

ちょっと、タンマ!(タイム)
はい、担任役さ〜ん、カット!(映画監督的に)


裏面の文章問題。
P氏によると、これまで裏面の問題を解いた経験がないらしい。
それで認められてきたのだから、やらなくていいのだ、と思い込まれていた。
「まぁまぁ、そう言わずにやってみないかぃ?」と無責任に促す支援者。
「1個10円のあめ玉を……」

P氏は眠気の将軍と対峙することを優先にする。
P氏の眠気の将軍と自分(わたし)の眠気の将軍を比べることは意味がない。

さぁて。
支援者は支援者自分自身と向き合う。

女優の「水野美紀」さんの中には「おっさん」が入っているらしい。
「おっさん」が「水野美紀」さんを操縦席からコントロールしているらしい。
(今年の3月30日にエッセイ本が出ていますよ)

わたしの中の操縦士(一名なのか複数なのかは謎)が話し合い。

協議の結果、セリフが決まった。

「Pさんは、あめ玉好きかぃ?」

P氏は
「大嫌い!」と主張。

支援者操縦士はひるまない。

「じゃぁ、チョコレートは好きかぃ?」

「好きだけど。」

「何味が好き?イチゴかい?」

「バニラとかキャラメル味とかふつうのチョコレートもいい」





そこへもって、

「1個10円のチョコレートを……」と問題を読み替えてやる。
問題は「8個買ったらいくらになりますか」的だった。
よって、2個の場合の式と答えを披露した。

すると、

「なーんだ!じゃぁ、こういうこと?!」

と、式と答えを書き込んだ。
答えも合っていた!

全問回答することはできなかったが、なんとかテストを提出。
この時、P氏は周りの様子を見て、これ(算数テスト)が終われば読書ができると思い込んでいた。
わたしもそうであった。

ところが……
2枚目の算数のテストを渡された。 (2枚あったんかい!)
このときになって、わたしは算数テストは2枚実施されるということを知ったのだった。

P氏は担任に
「本が読みたいです」と伝えた。
すると
「本を読んでいる人たちは、漢字テストと算数2枚のテストがもう終わったからですよ!」
と返す。

P氏には漢字テストを免除(?)されてしまったばつの悪さが浮上したことだろう。
強引にセリフにするのならば
「どうせ2枚目の算数テストをやっても漢字テストをしていないから、本なんか読めないんだ。」

複雑な心情を抱えながらもP氏は2枚目の算数のテストを時間を許す限り受けたのだった。


さて、「社会」の時間の話。
多くの子達は(さほど魅力的ではない学習活動に)上手に気持ちを分散させることに成功しており、かつ目立つ行動をしないというコントロールができていた。

P氏はそのあたりが不器用である。
行動面で結果として目立ってしまう。
目立つ行動をするP氏という暗黙の了解が、周りの子の目立つ行動を引き出すという構図であり、P氏の行動は叱責を伴う指導の対象となるが、周りの子の行動は指導の対象からあっさり排除される。
排除されるというか注意がそれるというか。周りの子の行動だって、P氏の行動がなければ、叱責を伴う指導の対象となり得るのだ。

支援者は、P氏のやる気(見た目的に授業に参加している様に表現できる力)をなんとか引き出そうとあれやこれや試行錯誤する。
見た目的に、
「P氏のやるべきことを支援者が代行している。P氏の甘えに支援者が応じている。」というように映る。

そこに至るまでの、あれやこれやの試行錯誤の過程、エピソードは担任には意識されない。

淡々と支援者が支援対象者の行動を代行しているわけではないのだ!

そこには「関係性」が構築されようとしている営みがある。
お互いの存在を認めての、対話、コミュニケーションあっての結果「行動の代行」なのである。この結果は積み重ねられる。
「自立」を目指して。

今の時点では「自立」はざっくりを避けられない。
なぜならば、担任と支援対象者の人間関係の構築具合が支援者にはよく分からないからである。


ここへきて、わたしはざっくりと気付く。
「関係性の構築」の場にいる、自分自身(わたし)、操縦者をもひっくるめたわたし自身が好きなのだろうと。

「関係性の構築」の場は、いくつも考えられる。
「わたしにとって好まない状況」と思い込んでいる場も含まれる。

好む場、好まない場とはいったい何なのか。
問いかけは続く。
明日をその問いかけの答えを見いだす日とは決めないけれど。

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駐車場にて自家用車のパンクを発見した。
夫に写メ。
実物を目の当たりにするまで夫は想像するしかないのでショックの度合いは大きいと察する。
さて、課題を抱える自家用車はエコ仕様だからかスペアタイヤは装備されていない。
応急処置用のパンク修理キットは装備されているようだが(確認はしていない)それをパンクしたタイヤに使った場合、そのタイヤは使えないらしい。
もしかすると、修理可能な状況かもしれない。
そうなると応急処置用のキットを使うのはなんだかためらう。
さらに調べてみると、会費を払っているロードサービス内容としてパンク応急処置というのがあった。しかも無料。状況によっては処置が出来ないということもありうるかもしれないが、その場合は、ディーラーまで牽引してもらうという方法もある。
ジャッキアップしてパンクしたタイヤを外して、タイヤのみ持ち込むということも考えてみた。(その外したタイヤをどうやって運搬するか?タクシー?)
実態を実際に近くで観察できたわたしだからこそ、ショックに浸るのは短時間であり、それを補うというか癒すために、さまざまな解決法をあれやこれやと考えることができたのだろうと思われる。

第三者を通して知ることになってしまった事柄は、実際にその目で確認するまではその想像の奥行きは広がり続けるものである。しかも、よりネガティブな方向である。
また、別々の人がある共通した現象を目撃しても、ショックの度合いはそれぞれである。
多様なトラブルを乗り越えてきた人にとっては、
「なんだ、そんなこと」なんてどうってことない出来事になるだろうし、
「こんなの初めてだ!」という人にとっては、過剰な苦しみや怒りが引き出されるかもしれない。

状況を冷静に見つめて、適度に視点を変えながら気持ちを分散させて広げていくことの大切さのようなことを学んだ今日である。





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