ふつうっぽい日記
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2013年05月09日(木) 二人前のパスタソース

5月1日より総務省統計局の家計調査に協力している。

昨日、夫の実家から梅干しと食材数点が送られてきた。
連休中(厳密には平日であったが)自動車で実家に寄った時に渡しそびれたので配送にかけたというメッセージが携帯メールと品物に添付されていた紙切れに書かれてあった。

今となって、訪問した時のことを思い出す。
主として、わたしからすると後ろ姿が印象的だった。

「いつも」と違うのは、テレビがついていなかったことと、義父が同室していなかったこと。
スマートな義母のシルエット。

「デイに出かけてはる」的なセリフを義母は言った。
その日が平日だったからなのかもしれない。

ただ、平日だったからという、ただそれだけ。

義父がいてもいなくても、義母が言うセリフは同じなのだということを今となっては繋げられる。

自立して家を出ること。
出かけること。
介助無しには一人で出かけることも排泄することもできない状況になっても、そう願うということ。
それを言葉にするということ。

しばらくは違和感があった。

病に倒れなかったとしたら、一人で出かける様な趣味のようなことをやっただろうか。
家族以外の誰かとのコミュニケーションのひとときを楽しんだだろうか、と。
「囲碁とか将棋とかじいさんたちが集まってやってはる」的なそういった場にいてほしいことを願っているのかしらと想像したことがあった。
たとえば定年で在宅するようになって、それから一から囲碁とか将棋とかやってみようかと外へ出るということをやるものなのだろうか。なんてこともいろいろと勝手に想像した。
一人でいろいろと外に出て活動する人は、ずっと前からそうしているものなのじゃないか。
「家にじっとしていてもヒマだし、つまんない」というのが信念みたいなものになっている人もいるだろうし、「やっと、ゆっくりできる」と解放感に浸ることを楽しめる人もいる。
でも、「ヒマ」とか「ゆっくりできる」時間というのは、忙しさの度合いに関係なく流れていけるものではないだろうか。

そんなこんなと、時々巡らせていくと、「違和感」はどうでもよくなっていった。
わたしにとっては違和感であったけれど、当事者たちにしてみれば「ふつう」なのだ。
その「ふつう」に寄り添おうと苦悩しなくてもいいのだ。
ただ、考えること想像してみることは意味があるのだとわたしは思う。

さて。
送られてきた品物、
インスタントコーヒーの瓶が2つと500グラムのパスタ、そして二人前のパスタソースが2袋だった。配送伝票には「梅干しビン」と書かれてあっただけなので、それ以外はクッションの替わりのような感じで詰められたのかなと想像した。
ついでのようなモノでも、やはり意味が伝わってくる。
いや、深読みしていくと「梅干しビン」の方がついでの存在のようにも思えてくる。
荷物はわたしが受け取った。
一応、箱の中身を確認した。
未開封の状態に戻すことが容易な梱包状態だった。
しかし、わたしはじっくりとは見なかった。
新聞に包まれた梅干しのビンは2つあったが1つしか確認しなかったし、パスタソースは「一人前」だと思い込んでいた。
ただ、パスタの販売製造元は確認していた。

品物の宛先は夫の名前だったが、事前連絡携帯メールは夫には送信されていなかった。
簡単にわたしから携帯メールで荷物の件を夫に知らせた。

「誰から?!」と返信的連絡があって、すぐには繋がらなかった様子。

意外だったのだろうか。

昨晩は少々体調が悪くて、わたしは早めに就寝した。
その間に夫は荷物の中身を確認していたことを今日、尋ねてから知った。
彼もまた開封して、未開封状態に戻していたのだ。
だから、わたしは
「開けなかったの?」と聞かずにはおれなかった。

なぜ、夫は開封しなかったのか。
未開封状態に戻したのか。
ということにも少々留まってみた。
巡らせた。

重なる光景があった。
訪問した際に、陶器市で選んだ急須と湯飲みを箱に入れて義母に渡した。
お茶の葉を添えて。
義母は新聞の包みを開いて急須を確認したが、湯飲みは確認せず、再び急須を新聞でくるんで「箱」の中にしまったのだ。
そして、その「箱」が再利用されて梅干しビンが送られてきた。
もっと言うと、陶器市で選んだ陶器を入れるために選んだこの「箱」は、お歳暮で義母から送られてきたものだった。よって、再々利用されて「箱」が戻ってきたのだ。
「箱」を主体にすると1800キロくらいの旅をしたということになるか。

結局、わたしが今日の午後に内容物のみをしかるべき場所に収めた。
「箱」は解体され、リサイクル段ボールの仲間と同流した。

そして、あらためてまた巡らせる。

梅干しのビンはほんの少し液だれをしていた。
よって、収納されるタイミングとしては絶妙だった。
梅干しのビンは、大きめのビン(梅干し専用のような……)をいただいたまま所持している。
しかも、内容物は残っているのだ。
かなり芳醇な梅干しになっている。
この梅干しが手渡された時、義父はまだ病に倒れてはいなかった。
実家で鍋をつつきながら、義母と義父は厳しい会話をしていた。
義母だけのセリフは今となっても同じように聞こえる。

同じように聞こえるような言葉を発することで、「あの時」の病に倒れていなかった、どうでもない一日を繋ごうとしているのかもしれない。


そして、二人前のパスタソースの表記を見て。
わたしたち夫婦二人以前に、義母夫婦としての二人の存在が意識された。

毎年増える、デイサービスでの義父の誕生日祝いの写真付き寄せ書き。

「笑顔がいいですね」と言われるそうだ。
そのことを義母がいうとき、やっぱりちょっと違和感を含む。

だからこその人と人との出逢い。
それはこちら側から臨んだことではなかったりもする。

荷物を届いたむねを携帯メールで送った今日。
「出逢いに感謝する日々です」と括った。
思いがけず返信が来た。

「人生は死ぬまで勉強」
「日々感謝」というフレーズがあった。
「感謝して」に続く言葉が
「生きます」の誤植か「行きます」となっていた。

これもまたいろいろと巡る。

この日をいつかまた思い起こして、またいろいろとわたしは巡らせるのだろう。

品物同梱のメッセージは夫の本棚に紛れ込ませておいた。

そして、昨日の家計簿には「もらいもの」として梅干し2000グラムとスパゲティ500グラム、パスタソース260グラムが2つと記載。
見積価格も記載することになっている。
この欄は、夫と相談して今晩埋めよう。


KAZU |MAIL