ふつうっぽい日記
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2014年03月11日(火) |
発達を妨げているもの |
今、この日記の題名を入力する段階で、自分自身へのメッセージがメッセージとして浸透した。 無意識のレベルでは「今、ここ」より前にそのメッセージを言語化していた。
「なんとかなる」という励ましの言葉もちゃんと受けた。
出来事の始まりは何かとごちゃごちゃするものである。 この言葉だって、言語化した。 受け止めてもらった。 「だからこそ、成長が楽しいし、嬉しい」とまとめあげも出来た。
「気」とは「空気」。 ああ、これもまた腑に落ちていく。
いつもいる場所にその人がいないという「気」だ。 張り詰めた「気」の意味が今となり、まとめあげられていく。
わたし自身の緊張の「気」で状況に膜を張っていただけだったのだ。 ほらそう、ほらそう、他の人だって、共通の「気」にどうにか折り合いを付けようとして、高らかに笑うしかなかったのだ。少々引きつったような笑いには意味があったのだ。 その笑いの原因がわたしにあるわけではなくって。
「気」を紛らわせるための、材料みたいな起爆剤のように投下されたのだろう。 「気」をかき混ぜる役回りなのであろう。 でないと、点と点が結びつかない。いや、特定の点と点を結びつけるのが目的というわけではない。
緊張を伴って現実をどうにか通過させようとしているのは、彼らなのだ。 その彼らの気持ちの雰囲気を読んでしまったのだろう。
もともと立場が違うということは分かっているのだ。 その違いを語るチャンスではないか。 「お嬢さんお入りなさい」という波は再びやってくるのだ。
「発達を妨げているもの」は心当たりがある。 でもそれが解消される場は、その解消のためだけにあるのではない。 やはり、同時にその場を共有する人間の何かも解消されて発達が促進されていくのだ。
その「気」はおそらくは珍しい現象というわけでもないはずだ。
まぁ、「こういう人もいるのだ」という少々口数の少ない子どもの寄り添い人もいるということだ。そして、その口を開きそうにない人が口を開くとき、まぁ、微妙さも引き出されるかもしれない。それもそれで、「こういう人もいるのだ」ということだ。 場を変えて、「こういう人もいるのだ」という自分以外の対象とだって関わっているではないか。
すべては、永遠に続くのではない。 そう、ちゃんと枠があるのだ。 枠の中に枠がある。
そういえば、B君がよくある物語を「宇宙」で置き換えていたではないか。 しかもとてもとても笑顔に満ちあふれて。
「気」の空間。 そうか、そうだ。 「聴く」だけでもいい。 期間限定のその人たちに「語ってみる」というのでもよいのだ。 それは限定された時間だ。 その時間の意味に、将来に期待しなければ何事もオーライなのだ。 明日は、少し素直になってみるレッスンをしよう。 明日は、C子も登校する予定だ。 そう。あの笑顔の素敵なC子に会えるのだ。 しかも、帰宅後は親友にも会えるのだ。 明日は幸せな日だ。 だから、「気」の空間もきっと素敵な時間に置き換わる。
また少し見えてくる。 子どもと向き合う人と入れ違いに「気」の空間に入るではないか。
また見えてくる。 昨日は、ハードなひとときを通過させた。 そのハードなひとときに近かった時間、ちょうど昨日の今くらいの時間に、明日のことが気がかりだった。 でも、昨日の明日の今日はどうだったか。 昨日のハードなひとときと全く違う、キラキラした笑顔が感じられたじゃないか。
そう、まったく同じ一日なんかない。 まったく同じ「気」の日なんかない。
何事も学びだ。 そして、わたしはわたしを動かしていくしか出来ないのであり、誰かに代わってその誰かを動かすなんてことは出来ないのだ。その誰かが今、動けないからといって、憂う必要はない。 ああ、憂いも想像であり、憂いの想像で「気」を重たくしていたのだ。
素直に脳天気にいこう。
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