ふつうっぽい日記
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2014年03月24日(月) ほどけるまでの物語

一度、この日記空間を開いた。
「悶々」とした気持ちの途上を言葉にして考察しようと考えていた。
しかし、どういうわけかやめた。
パソコンも電源オフ。

そして、わたしは万年筆を握って、白紙のノートに何かを書き始めた。
そのノートに書いたことをここに紡ぎ直しておく。


「本を読む時」
書きながら、メモしながら読みたい時もあるし、えんぴつで線を引きながら読みたい時もある。
“せねばならない”とか“積まれた本の山”に、疲労感を感じることもあればその状況だからこそ、自身を奮い立たせることができることもある。



「ニュートラルに!」
“こちら側から” “あちら側から”
柔軟に考える癖をつけよう。
近視眼的になると、柔軟に考えることを忘れるらしい。
しかも、不思議な現象の感動の世界みたいな空間に逃避して、満足して、仮の落ち着きで満足して、速攻で少々“痛い” “軽い” “ぼろが出る” “奥行きの浅い” “理論的でない” “部分的な常識” “上っ面のみをコピペしただけのような” 行動を、対話的な相手に差し出すような行動に出て、いともかんたんに倒れ、結果疲れるということになりがちだ。

疲れるの中には、誰かを受け止めるためのサプライズや、調子にのった言動、突飛な企画をおもいつくことは含まれない。
結果としてのエネルギーが「疲れる」の後味をとったように見えたとしてもその“過程”では、脳内に面白根性が心地よく暴走しているのだ。

暴走を畏れるな。
その行動が、他の人間にとって、大変な営みや価値観であったとしても、
それを主体的にやっている「あなた」は、正しいのだ。
いや、正しいとか悪いとか、ずれているとか、間違っているとかそういう基準など、ありはしないのだ。

「私だったら大変」と言われても、
しょせん、他人になることなどできないのだ。




「これだったのだ!」
今日はパート先に履歴書を提出する期限だった。
この日付は、募集要項に書かれているものだ。
これまで、わたしは “マジメに” 締め切り日までに提出してきた。
いや?出すように、“上” から指示されたのでそうしたにすぎない。
自然な流れであった!
では、今の自然の流れを見つめてみよう。
今の自然の流れはある意味、“自然” か?!
いや、前例がない。
履歴書の提出を指示されないままに、次の扉へと促されているではないか!!
いわゆる “内定” に似たものである。
これでよいのだ。
これが、自然なのだ。
前例のない、自然の流れには、身を委ねるしかないのが、自然であろう。
何を焦る必要がある。
ペースにのらされていることへの抵抗か。
“よい子” “いい人” “きちっと守る人” であることを維持することにこだわり続けたかったのか?
否である。
わたしは、流れに委ねる道を進むことを目指していたのだ。
だから、これでいいのだ。
タイミングが必要、重要というじゃないか。
こだわりを維持する行動は、タイミングを逸脱することがある。
場を混乱させることになり、やがて、自身が混乱していくのだ。
意識ある、意図的な、愛ある場の空気への戦略ではない。
状況によっては、場の空気をかき混ぜる勇気も必要ではある。
しかし、自身が混乱するというのは、疲労感が増すばかりである。
今、わたしは、混乱していない。
むしろ、一つ自然な流れにのれたような、肩の荷を下ろせたような楽さがあるじゃないか。
そう、わたしは “達観” “楽観” している、できるキャリアなのだ。
といっても、途上かもしれないが。
だから、これもそうあって、自然なのだ。
達観な人は、執着から解き放たれるものだ。
そうなってしまうものだ。

すでに、そうなった動揺を素直にわたしは表出したのだし、認めてくれる人間だっているのだ。
自分を信じ、自分を信頼してくれた人を信じればよいのだ。
今日は、執着、欠点が一つ解放された日なのだ!


KAZU |MAIL