ふつうっぽい日記
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2014年05月13日(火) |
わたしの中の「あなた」 |
わたしの中に、誰かがいるなんて書けば、少し気持ちが悪い。 そうじゃなくて、知り合いや友人の関係性の記憶を「誰か」とか「あなた」とすれば、ほぐれてくるのではないだろうか。
いろいろな人のなかに、その人自身の中に、さまざまな人の関係性の記憶がひしめいている。 関係性の記憶のエピソードや現象だけを取り出せば、「わたし」と「あなた」の境界がなくなりそうにも思えてくる。
「ひとりっ子のA子」は「わたし」だったかもしれない。 「2人姉妹の姉のA子」は、「わたし」でもある。
親友のお父様が去る1月に亡くなられていた。
それは別の友人のご懐妊記念のちょっとした集まりの場で語られた。 それは対話で流れた空気の誘導がきっかけでもあっただろう。
たとえば、我が義父に肺がんが見つかったという語りとか。
「実は」と迷いながら、迷う心を揺らしながら紡がれる言葉。
「あなたの弟さんの時は……どうだったの?」と、さらに語られなかった別の友人のエピソードも紡がれていった。
「三回忌が終わるとね……まぁ、3年じゃなくて2年だけど……すっきりしてくる。四十九日の時もスーッとするけど、百箇日の時は……きつかったから。気を付けてね。わたしは難聴になって……」
「従妹がね、父が従妹のお店の前に立ったって言うの。霊感とか強いとかって聴いたことはなかったんだけど……それでね、その従妹が、これでわたしもやっと大人になれたなって言ってね。今度、話を聴いてみようかなって思う」
実は、わたしも「霊感」をキーワードにして語られそうになるようなエピソードを持っている。 日記に書いたかもしれないが、再び言葉にしておこう。
それは3月29日頃だったと思う。 わたしの中での母親との課題をまた一つこなした日。 わたしの、幼少時代のわたしと向き合った日でもある。 些細な母親とのやりとりの電話で、もう、母には会えないと思ってかなしくなった。
「もう、こうやって、お話できないの? お母さん。 もっと、こうやって、お母さんとお話していたいのにな。 わたし、これからどうしたらいいのかなぁ? 何になったらいいのかなぁ?」
「お姉ちゃんは、字を書くのも上手だからね。」
「本を書いたらいいのかなぁ。 死んでも本は出るもんね。」
「そうだね。本、書いたらいいね。 書いたら、お母さんにも見せてくださいよ。 ぼちぼち、時間になるからさ。 電話、切らないといけない」
「えー。」
「遅れないように、行くからね」
「分かった。」
「行く」とは我が家に来ることだった。 一緒に食事をするために。 わたしの誕生日祝いの食事だった。
誕生日プレゼント、母は悩んでいた。
「何でもいいよ」とか言ったのかな。 そう言われても悩むのだ。
で、わたしたちも食事の買い出しで出かけた。 買い出しに向かう自動車の中で、母から電話があって。 「花にしようと思うの。 お友達のリカちゃんがほら花束持ってきてくれた時、 あなた、とても幸せそうにニコニコしてたのよ。 それを思い出したの」
わたしは 「なんで?なんで?」とただただ泣けてきた。 夫にも疑問をぶつけた。 「なんでなんで?どうしてリカちゃんが出てくるの?」 夫は言った。 「そういう偶然ってあるんだよ。」
実は、「リカちゃん」という親友と、メールのやりとりで不愉快な思いをさせて不安な気持ち、自己嫌悪な気持ちに時折支配されていたのだ。 それを結びつけたのだ。
母の何気ない電話での言葉に、その「リカちゃん」が出てきたのだ。 それも、彼女を前にわたしがニコニコしていた、とかいう。
その時、母の力みたいなものを目の当たりにした。
夜の食事では、しんみり泣いたりすることなく、どちらかというと笑い過ぎるくらいのテンションであった。
駅まで歩いて送ることになって、住宅の下に降りて、ふと窓を見上げた。 すると、色白な子どもの姿が目に入った。 わたしは、テンションにまかせて、手を振った。 飛び上がっていたかもしれない。 すると、その子も手を振り返したのだ。
その姿を夫や両親が見ていたのかは分からない。
それから同じ窓のところを何度か見るが、その窓のあたりに人の陰が映ることは一度もなかった。
あれは、わたしの創造した「インナーチャイルド」であったと意味づけた。
気がかりな家族時代の「わたし」との発展的な別れ。
といっても、幼少時代の「わたし」の記憶がすっぽり抜けているのではない。 その「儀式」を通して、自由に想い出の世界を行き来できるようになったのではないか。 幼少時代の「わたし」が意味不明で、また、思いこみで泣き続けるということがなくなったのだ。 生きづらさ、息苦しさからの卒業ともいえるか。
弱い、切ない「わたし」を、一度、外に出すことによって、内在化させることに成功した、というか。それも内側にずっと張り付いているのではなくって、外からわたしを暖かく見つめてもくれる。
親友にとっての従妹が見た、亡くなったおじさんの姿。 おじさんの記憶は、親友にとっての父親の記憶は、たくさんの人のこころの中に残り続ける。 「死」という儀式によって、外に出されるが、再び、自由に、想い出の中で行き来するのだ。
おじさんは、何にだってなって(=変身して)、「わたし」にメッセージを伝えてくるのだ。
だからわたしは、なんだかあれやこれやと言葉を書いてしまうのだ。 「わたし」の中に入っている「あなた」がそうさせているのかもしれない。 「わたし」の外側が、脳髄が、指先が、頑張って言葉を繋げていく。
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