ふつうっぽい日記
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2014年05月18日(日) 健全な思いの一部、されど。

実は、ここ1週間くらい今のパート現場を辞めたいと考えていた。
痛い思いにあっているとかそういうのではなく、なんとなく。

いや、なんとなくではない。
自分の内側に静かに問いかけてみるならば、
自分の限界みたいなものを感じたからだ。

おや?
「限界」って何だろう?
問いかけてみよう。
勝手に設定したものだし、だいたい、「目標」ってあるのか?
それもはっきりしていない。
だったら、その「限界」っていうのはちょっとした「逃げ」の理由に過ぎない。

まぁ、でも、「逃げ」の姿勢、後ろ向きの思いということ自体は、健全な思いの一部だと思う。
その姿勢や思いの持続時間だって長くはないのだから、「病的」な範囲でもないだろう。


振り返ると、数日前に ソーシャルワーカーさんが自己紹介を個人的にやってくれた。
昼食をご一緒できたのだ。
さらに振り返ると、その翌日、どかーんと疲れるエピソードが起こったのだ。
「久々に」とも言えた。

話を戻す。
ソーシャルワーカーさんの存在。
もしかしたら、管理職の配慮だろうか。
自然にアプローチしていただいたのだろうか。

パートさんがちょっと元気がないから話をさりげなく聴いてやってくれないか的な。
いやいや。
これは違うかもしれないけれど。
それくらいに、今は、ちょっとした出逢いが必然のように思えてくる。
しかし、自己紹介をかわしたその日は、適度に「ふつう」であったので、
「ワーカーさんという存在がいる、ということだけで励みになります」的な言葉しか出なかった。
当然といえばそうだ。

本年度新しく入ってきた職員さんから も
「疲れてない?」と声をかけてくださった。

「この仕事は……じゃないと、やってらんないから」と、すごく気持ちが楽になる助言をいただけたのだ。

「あなたが絵を描くのが好きなら、起こった出来事とか関わった人たちのことなんかを絵日記みたいにして描いてみたり、小説みたいにわざと小難しいような表現にやりとりを置き換えたり、《今日の変なポーズ》とか記録してみたり、観察日記を書いてみたり。そうやって楽しみながらやるとまた違ってくるかもしれないですよ。
行動を直そうなんてマジメやろうとしても、関わる人たちは、そう簡単にいかないんだから。
関わりを楽しむ、でも安全を気に掛けて。。。」

と。

そう。
そうなのだ。

わたしはそうやってきたんだった。
4,5年、業務日記的にエピソードを綴ったりなんかしてオチ(?)をつけてきたじゃないか。

明日は明日の風が吹く、って締めたりなんかしてね。

そう思えば、「限界」に思えたことも腑に落ちる。
「限界」は「スタート」に戻った、初心に戻らされたということ。

「一人じゃない」という気持ちは持ててはいた。
けれど、そこには「あなただけではなく、私だってきついのだ」という背後のメッセージも読めて、悶々ともなりそうだった。
しかし、ワーカーさんや一部の職員さんたちの様に、自分のペースで確実に落ち着いている人がいる、という存在は本当に頼もしい。

そう思えば、このような頼もしさへのありがたみを自分の中に取り込むためのこれまでの悶々だったともいえそうだ。

「感謝する」とは言葉にしてみればシンプルだけれど、煮詰まっていると、何に感謝するのか考えすぎてよく分からなくもなる。

数日前に、自分自身の存在に感謝した。
そうか、次の段階の感謝なのだ。

方向性は合っていたっぽい。


Aさんとの関係性。
前年度は、予想外に距離を置くような指示があり、それは
親子の関係性が崩れるくらいな衝撃(わたしにとっては)だった。
しかし、今日張り付くように、強調された。
成長だとして距離を置くように的な指示だと思い込んでいたのは、わたしだったのか!
いや、他のパートさんが距離を間違って、暴言を吐かれたということを配慮されたが、わたしに関しては正しい距離だとは言い切れないものの、暴言を吐かれたとかそういうマイナスの刺激、結果に配慮されたわけではなかったのだ。
そう、わたしは暴言をはかれてないのに、どうして距離をおかないといけないのかと、そこに抵抗があったのだ。
今日の距離を密にしてもOKという指示に、矛盾を感じたが、それはある程度の期待がそこにはあるからなのだ。「あなたは暴言を吐かれる(危機的な状況になる)可能性が高いというわけではないのだから、あなたとAさんとの関係性なのだから、物理的な距離を狭めても大丈夫。他のパートさんが暴言を吐かれたからといって、あなたが同じような状況になるわけではない。同じ立ち位置でのアプローチをするように指示しているのではない」ということなのだろうと。

わたしは順応しようとしていたのだ。
空気を読みすぎたともいえる。

「認めてください!」と宣言しなくても、おそらく自然と目に入ってありのままを取り入れていかれる、そんな存在であるし、役割なのだろうと今のわたしは思えた。

有意義な近視眼的状況に支配されていた。
今となれば、そう思えなくもない。

継続的に関わっていれば、ただそれだけの積み重ねの間にも疲れは積み上がっていくものだ。
そこへきて、イレギュラーな出来事も起こる。
起こるべくして起こるが、その時できることは本当に限られている。

過去は水に流せという。
今日と、明日(未来)を見つめる、今この時を過ごしたい。
明日、何が起こるか分からない時代だからこそ。


KAZU |MAIL