ふつうっぽい日記
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2014年08月27日(水) しくしく。ニコニコ。

朝、結果としては15分くらい雨が降った。
その最中は、
「ああ、今日は雨降りの1日になるのだな……」と、簡単に思い込んで、出かける用事も後回しになるなぁ……的であった。

しかし、である。
このところの天気変化で学習してきたはずだが、以後数時間雨は降らず、洗濯物も外に干せるくらいな穏やかな空模様として持続できたのであった。

天気変化にするのは、あれだが、まぁ、どこか情緒的に連動することころがあったのだろう。
いや、厳密には連動していない。
暖かい日射しの中で、わんわん涙も流したのだから。
どちらも、マイペースでそうなるからそうであることが展開された、そんな感じだったのだろう。
この現象のみをガッツリ切り取れば、情緒不安定な人である。
いや、違うか。
わんわん涙する濃厚な現象は、泣いている人として安定している。
情緒不安定な人として安定させるためには、泣いたり笑ったり次から次に移り変わる現象を切り取らねばならぬ。
まぁ、人生山あり谷あり的な現象を情緒不安定であるとは言わないだろうから、「あるある」の枠の中に収められるだろう。

前回の日記では、ずいぶんと濃厚な気持ちが巡っていたなぁと自己分析。

今のわたしならば、別の思いである意味、淡々とエピソードを聴けるような気がする。

衝撃的なエピソードに動揺してオロオロして、なんだかの情緒安定へと至るそのプロセスだからこそ、得る力のようなものがあるのだろう。
それを一括りにして、「ココロが強くなった」「気持ちが軽くなった」というのはちょっと軽いような気がしてくる。といって、重く受けとめる必要もないが、意識的に移り変わる自分自身の情緒から気づきや学びが得られるということは、ちょっぴり賢い力が発動できたと思いたい。

さらに、引いて自己分析すると、様々な思い込みの像が立ち上がって、思い込みにもかかわらず、その像の感情に巻き込まれて切なくなる、息苦しくなる状況にあった。
棚に上げられていた感情の部分的な成分というか材料が、思いがけずブレンドされて、なんだか意味不明にもかかわらず「涙」を出す現象を伴ってしまったというか。
まるっきり、心当たりがないという訳ではない。

強がっていた自分の切れっ端を意識したからである。
強がりを補強していたのは、都合のいい言い訳のような、正当化する理由だ。
正当化する理由の材料はしょせん小さな単位に過ぎない。
例えば、何人かに愚痴的につぶやいたときに得られるひとまずの落ち着き、安定感みたいな。
聴かされる側はよほどの関係にない限り、反論したり批判はしない。
というか、落ち着いて聴いてくれそうな人をあらかじめ選んで、言葉を発しているのだから、肯定される確率は高くなるのだ。

しかし、やはり、しょせん小さな単位。
それらを強固な一つにまとめあげるような統合するようなエネルギーも小さい。
自分の器が極端に小さいならば別だが(そもそも器の大きさなど測れない)、たいがい、人というのはよりよい方向に、視野が広がるように試行錯誤するものだろうから、広がり、大きくなろうとする器に小さな単位のものがあったとしても、ばらけていくばかりだ。
粘りのあるご飯粒だって、時間が経てば固まって、ポロポロになるのだ。

つまり、あれやこれやの衝撃の場面でひとまず棚に上げられた情緒的なものが、衝撃でない環境下になったことによって落ちてきたのであり、その落ちのタイミングが一発集中ではなくて分散されたということなのだろうと。
衝撃の場面では、ひとまず自分の感情を棚に上げないことには、その場に居続けることが不可能な場合がありうるということ。
その場面を共有する関係性によっては、淡々と話をそらしたり、極端な場合は逃避することも必要だろう。

意識的に聴こうとした、聴きの姿勢の枠に(役に)収めようとした「わたし」は確かにいたのだ。
自分の聴ける力を試そうとした「わたし」が確かにいたのだ。

地道に「聴く」レッスンを続けたいと思えた今日である。


KAZU |MAIL