ふつうっぽい日記
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2014年09月09日(火) |
つまり過去にできた。 |
昨日あたりからイライラしたり、頭の中がもやもやしている。 正確には(本当に正確とは言い難いが)、それは長時間というより降りてくるようなある程度枠がある感じの限られた時間だ。 もやもやというか、眠たさの闘いの様で、おそらく、そうあるからそうなるという自然な反応なのだと思う。 これが適応の状態だと思われる。
「今、ここ」(ちょくちょくこの表現には出逢う!) この環境条件に適応した、というか。 今、実際的にある特定化された職場組織の中での頭脳労働はやっていない。 表面的な直接的な人間関係にも巻き込まれていない。 「燃え尽き」状態からの解放、寛解がどういうプロセスをたどるのかについては詳しくないが、その途上にあったであろうということは自覚された。 身体と心の時間差的反応。 このちぐはぐな状態からは、おそらく抜け出たのではないかと思う。 つまり過去にできた。
過去にすべきであった「P」の状態にあるとき、「P’」のこと(確実なる過去)で「今、ここ」を埋めていたと思う。 よって、「今、ここ」で「P」が語られるべき時、「P’」を語って枠がいっぱいになってしまい、語られるべきPがP’になる機会を奪っていたのだろう。 特別なPであったゆえにこの「わたし」は特別なのだ的に自己が肥大していたのであろう。
PをP’の一部にすることへの抵抗は、こだわりとも思える。 このこだわり自体は、病的ではないはずで、このこだわりこそが純粋な内部(自分自身のマントル的な)を映しているのかもしれない。大きな広いしくみの中の一つとして。
ある一日をその一日として終わらせるということ。 なかなか当たり前過ぎて意識はしないことだが、一日として閉じるこの作業は重要だ。 この作業が少しずつ少しずつ遅れていって、やがて、「燃え尽き」的な状態になって、ただ一日を終わらせること、閉じることだけを頑張る必要が出てくるのだ。 それだけのことのために日々を消費するということに、「抵抗する」という段階を経て、ようやく頑張れるようになる。
心的な、内部的な、精神的なアンバランスを建て直す時。 「休養」を優先するように助言されるし、自然体でおいてもそのように心身が反応していく。 「動かねば!」 「〜せねば!」 と、具体的に動けない、動かない自分を恥じたり、ちっぽけに思えたりしてくる。 やがて進めば「焦り」も出てくる。 それらが「抵抗」だ。 その「抵抗」の声を、ありがたい「お告げ」だと奮い立たせて歩き出すことも可能ではある。 「抵抗」途上のあれやこれやを巡らせながら、意識しながら、見えてくる「感謝」の存在。
無事でなによりまた明日。
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