日々雑感
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2001年12月04日(火) 「地球交響曲・第一番」

下高井戸で映画「地球交響曲・第一番」を観る。時間を勘違いしていて、着いたときには既に上映中。さらに満員。映画館のお姉さんが「こんなのでよかったらどうぞ」と言って通路に座れるようにダンボール紙を渡してくれたが、入ったらそのスペースもなく、結局立ち見だった。

「地球はそれ自体が大きな生命体である。全ての生命、空気、水、土などが有機的につながって生きている。これをGAIA(ガイア)と呼ぶ。」

ジェームズ・ラブロック博士のガイア理論である。「地球交響曲」はこの理論をテーマに撮られた作品で、現在第四番まで完成している。以前「第三番」を観たのだが、上映中ずっと泣けて泣けて仕方なかった。今回の再映はほんとうにうれしい。

「第一番」だが、六人の人びとへのインタビューがオムニバス形式で綴られる。登場するのは、登山家ラインホルト・メスナー、ナイロビで動物孤児院を運営するダフニー・シェルドリック、アイルランドの歌手エンヤとケルト美術研究家鶴岡真弓、アポロ9号のパイロットであったラッセル・シュワイカート、水気耕栽培法でトマトの巨木を育てた野沢重雄。中でもいちばん印象に残ったのはダフニー・シェルドリックの章である。

彼女は密猟などで母親を亡くし、孤児になった象の赤ちゃんを育てては野生にかえす活動を30年以上にわたってつづけている。彼女は仲間の死体を発見したときの象の様子について語る。

「不思議なことですが、象は、象牙が自分たちの社会に大きな悲劇をもたらしていることをよく知っているのです。(中略)野性の象たちは、殺された仲間の遺体から象牙だけを取り外し、砕き、遠くの森に運んで隠します。これが理不尽な死を迎えた仲間に対する、最後のはなむけなのです。しかも彼らは、人間と同じように仲間が亡くなった場所を何度も何度も訪れます。彼らは死ということの意味を知っているのです。」

「象が人間と同じような行動をする」という言い方もあるが、逆に「人間が象と同じような行動をしている」とも言えるはずである。人間こそが地球上で特別な生き物だと思うことの愚かさを思う。

テーマだけ聞くと自然保護や動物愛護をスローガンとした映画のようにも思えるが、決してそうなっていないところがいい。(自然保護や動物愛護の中には無責任というか、人間の傲慢さを感じるものもあるから)人間もまた自然の円環に組み込まれた一存在にすぎないという意識が撮っている側にあるからだろう。

自然とは決して牧歌的なものではない。獣や嵐や寒さに脅えることのない安心な生活、明るい夜、それらは私たち人間が何としても手に入れたかったもののはずである。生きていくためにラッセル・シュワイカートのいう「テクノロジーとの結婚」はどうしても必要なものだったのだと思う。(けれども、自然への畏れがなくなって便利な生活だけが目の前にポンと差し出されるようになって、何か勘違いするようになってきたのではないか。)ただ自然を守れというだけではなく、生命の連なりの中で人間が担った役割が何であるか考えること。人間という種の個性を探すこと。

この映画は声高に何かを叫んだりはしない。しいていうならば、淡々と映し出された生命の詩であると思う。

もうひとつ覚えているのは、「目に見えるものだけがこの世のすべてではない」という登山家メスラーの言葉。私もそう思う。

※引用はすべてパンフレットから。



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