ホームに電車が入ってきた。ドアが開き、中から人が降りてくる。すると僕の後ろから、ズイズイと分け入ってきて駆け足で空席を求めるご婦人。
本が読める好スポットを見つけ、つり革を握る。僕の背後の優先席には、三人掛けの幅をいっぱいに使って二人で座る女子高生。足を投げ出し、大声で馬鹿話をしている。
電車を降りる。ごった返す。エスカレーターの乗り口では無言のバトルが繰り広げられている。ゆっくり運び上げて欲しい人と急いで駆け上がりたい人とが二つのレーンに整理されるには、ストレスがつきまとう。
結局階段を選んで自動改札口へ向かう。すると今度は並行して歩いていたサラリーマンが、加速してギュギュっと僕の前に入る。まるで残り一つの獲物を争っているかのように。
どれもよくあることだ。こんなことでいちいち腹を立てていたら神経がもたない。そんなとき僕は、努めてこう考えるようにしている。
人間には二種類いる。人は、他人を嫌な気分にさせる「不快さん」とハッピーにさせる「好感さん」に大きく分けられるのだ。そう考えれば、不思議といろいろなものが許せる。ああ、この人は「不快さん」なんだな。そう思えば、しかたないか、とも思えるのだ。
「不快さん」は後天的な要素によって出来上がる。家庭環境、生活環境なんかが影響して「不快さん」になってしまったのだ。だからその「不快さん」自身には罪はない。
もちろん已むに已まれぬ事情の場合もある。体の具合が悪かったり、ひどく酒に酔っていたり、ボロボロに疲れていたりして、他人にまで気が回らないこともあるだろう。
もともと「不快さん」であっても、のちに「好感さん」になる人もいる。昔は爆音を響かせてバイクを乗り回し、周囲の人に眉をひそめさせたヤンキーだって、「母校に帰」れば「好感さん」になったりもするわけだ。
ここまで到達すれば、対人関係のストレスはかなりなくなる。ホトケの境地とでもいおうか。
この状態で、前の事象を振り返ってみる。横入りのオバちゃんは、風邪を引いてフラフラだったんじゃないか。あの女子高生は、公衆マナーを誰からも教わったことがないんだろう。急ぎ足のサラリーマンは、せめてあの「競争」に勝ちたかったのかもしれないし、先を見越してぶつからないように気を利かせたのかもしれない。
しかしこの思考方法、実は自分を他者より上位において他を許そうとする、とてもいやらしいやり方だということは認識しておく必要がある。あまりに許しまくっていると、それはそれで尊大で、「不快」だからだ。ただ外からはその独善的な思考が見えはしないので万事丸く収まることが多く、ある意味有効なガス抜き方法なのである。僕はこの思考方法をもう少し極めようと思っている。
帰りの電車。手に持った荷物をぶつけても、何も言わずに歩き去る人。
「そうはいってもムカツクときはムカツクんじゃー、ゴルァ」
僕の修行は続く。
2004年02月08日(日)
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