最強の星の真下

2002年07月30日(火) 死後の世界の有無。

『新耳袋』を読んだ。・・・いや読んでいるところである。現在96話目。
何処かのHPかWEB日記かで読んだ話が頭を過ぎる。

全部一気に読み通すと百物語と同じ効果があって、怪異現象が起こる!

の、残りは明日にしようかな、などと8%くらい考えるが、蝋燭も立ててないのになんで百物語になるねん!という意識も強く(15%)、それ以前にそんなに怪異現象が起こったら発禁になるだろーわはは〜(62%)とも思う。そして残り15%は、そんなのどうでもいいって。といった配分。


霊を信じるか?
母は、TVでやっている「怪奇!○△の祟り?!」のような番組が大好きだ。
そしてその類の番組を観る度に、
「まあそんなことあるのかしらねえ」「これぜーんぜん心霊写真じゃないわよねえ」
などと論評している。
私が横にいると、母は必ず私に聞く。
「こんなのあると思う?」

母としては、霊があるなんてナンセンスだが、もし自分が死んだ時にあの世が無いと思うのも不安なのだ。

彼女は「死」という概念と向き合うことが出来ない。自分にもいつかそれが訪れるという事を考えるのを、ヒステリカルに拒絶する。
自分の内面、自分の精神活動について意識を向ける事が出来ない母には無理からぬことかもしれない。
癌になったときの告知も、「しないでくれ」とは彼女には言えない。
「癌だなんて言われるの、私だったらやだわ〜」あくまでも自分には関係の無い話だというスタンスを慎重に保ちつつ、冗談に紛らせて告知拒否を表明することしか彼女には出来ない。

だからこそ余計に、今と同じように、何となく死後の世界でも生活が続くと漠然と思っていたいのだろう。
こんな母が宗教に走らない理由は単純である。宗教は、例外なく我が身の死について考えさせようとするからである。
閑話休題。
つまり母は、こんなのある訳ないわよねえ、という口調で問いかけながら、「あるかもしれないよ」という言葉を私に期待する。
そして私は聞かれる毎、母の無意識の期待を裏切らず「わからないよ〜あるかもしれないじゃない」と返すのだ。


霊の世界とは、そういうものなのではないだろうか。
あると信じていれば楽になるのであれば、あることにしておけばよい。
あると思うと苦痛なのであれば、ないことにしておけばよい。

私自身はといえば、あるということにしておけばよい、に一票。
霊にしても超自然現象や怪異現象にしても、あると思う方が生活が豊かに感じられるのだもの。

ごめんね成仏してね、と亡くなったペットに話しかける方が。
お盆だから祖父母が家に帰ってきてるかな、と思う方が。
慰霊祭で霊も慰められる、と思う方が。
単なる偶然でも、何かのお導きだと思う方が。
ネッシーだっているかもしれない、と思う方が。
私はその方がいい。


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桂蘭 [MAIL] [深い井戸の底]

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