月の輪通信 日々の想い
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実家の父から突然の電話。
「鯛の切り身が3切れあるんだが・・・」
「はあ・・・」
父の電話はいつもいきなり本題に入る。
「これを煮るには、鍋に何をいれる?」
「はあ?」
すぐには事情がのみこめなくて、間の抜けた返事をしてしまった。
「いやあ、お母さんが留守でな、帰ってくるまでにこれを煮ておいてやろうかとおもって・・・」
「ああ、そういう事ね。じゃ、お酒とお砂糖とお醤油とね・・・」
煮付けの作り方をざーっと説明しながら、父がお台所で空っぽのお鍋と切り身魚を前に思案し ている図を思い浮かべて楽しくなってしまった。
「煮汁が『あわぶくたった』になってからお魚を入れてね。」
母が嫁入り前の私に何度も念をおして伝えてくれた煮魚のコツ。
私が父に教えるようになるとは思わなかった。
数年前に定年を迎え、「毎日が日曜日」生活に入った父。
近くの「老人大学」に通ったり、四国八十八カ所を歩いて回ったり、次々に新しいことに挑戦し ていわゆるシルバーライフを充実させているように見える。
私が実家にいた頃、専業主婦の母と元気な頃の祖母が家中の家事は取り仕切っており、父が お台所にたつと言うことはごくごくまれだった。
仕事を辞め、「おうちの人」になった父は、母の家事にも精力的に手を貸しているらしい。たま に実家に帰ったとき、父が生ゴミの袋を当たり前のように下げて出るのにちょっとびっくりしたこ とがある。
母は昔からお料理上手だが、母の料理に対する父の評価もまた基準が高かった。
休みの日の夕食には、よく魚の棚の市場で買ってきたお魚を母が料理した。
ことに父が好きだったのは「鯛のあら煮」。
拍子木に切ったゴボウと共に甘辛く煮た鯛のあらは、父のための特別の一皿だった。
鱗の処理がたりない、煮汁が少ない、味が濃い、味が薄い・・・。
父は母が用意したあら煮をつつきながら、毎回毎回、注文をつけた。時にはとても不機嫌にな って食卓に緊張が走ることもあった。そのくせ父は最後のひとかけらまできれいに母のあら煮 を食べた。
そんなやりとりを見て育った私にとって、「鯛の煮付け」は緊張を要する特別な料理の一つとし て、刻み込まれていた。
新婚当時の私にとって、煮魚はいつまでも苦手メニューだった。「鯛のあら煮」はたまたま主人 にとっても大好物の一つだったが、何度やってもこってりと煮汁の絡まりほろりと身のほぐれ落 ちる母のあら煮に近づくことはなかった。
幸い、私が選んだ人は新妻が苦心してこしらえた料理の不出来に不機嫌になるようなタイプの 男性ではなかったが、それでも満足のいくあら煮を食卓に上げることが「良き妻」「あるべき主 婦」の基準であるかのように、私はいつまでも母のあら煮の味にこだわっていたような気がす る。
「夫には生ゴミの袋をださせない。」
「ご飯をつぐのは、まずお父さんから。」
「鯛の頭は、父さんが食べる。」
そんな古くさいこだわりが、いまだに私の頭のどこかに引っかかっている。
「男子厨房に入らず」
食卓で厳格に「不動の父」の姿勢を守っていた父が、最近では食事の調理や食後の後かたづ けにも挑戦している。
主婦の城に介入してきた父の姿を母はうふふと笑いながら見守っている。
子供らが巣立ち、祖母を見送り、家族の形態が変わっていくのに伴って、夫婦の形もいつしか 大きく変わっていくのだろう。
我が家でも、日々の食卓に何度も当たり前に煮魚がのぼり、主婦歴14年にして、煮魚の苦手 意識はなくなったが、いまだに「鯛のあら煮」を作るときには、ちょっと気合いが入る。
母があら煮の一皿を父の前に饗したときのあの微妙な緊張感が私の意識の中に染みついて いるからだろう。
父が外出中の母のために、鯛を煮る。
実家を離れて久しい私の胸にはまだ、あの微妙な緊張感がきらりと残っているというのに、父 母二人の日常は年齢を重ねて刻々と変化していく。
「なんか、父さんも母さんもズルい・・・」
ちょっとすねるような思いで、電話を切った。
父の鯛の煮付け。
上手に出来たのだろうか。
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5月27日朝、母からの電話。
「父さんが『さすがに娘も40才にもなると、料理もうまいこと教えてくれるわい』と、いってたよ。」
よかった、おいしく出来たのね。
「40才にもなると・・・」は余計だけど・・・
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