月の輪通信 日々の想い
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子ども達4人を連れて、電車で父さんの個展会場へ向かう。
子ども達を連れて電車に乗るのも随分楽になった。小さいアプコの面倒はアユコが見てくれる し、小さな荷物は男の子達が分け合って持ってくれる。
よく空いた長い座席に、よく似た顔の4人の子ども達を順番に座らせて、「4児の母です。」と胸 をはる。
ようやくここまで・・・と感慨ひとしお。
発車時間になって、最後尾車両に座っている私たちの耳に、聞き慣れない若い男性の元気な 声が飛び込んできた。
どうやら、新しく車掌になる新人さんの実習に乗り合わせたらしい。
先輩の車掌さんとともに乗り込んできた若い新人さんは、緊張した声でマニュアル通りに客席 との境の窓を開け、発車前の点検の手順を次々にこなしていく。
そのたびに、「・・・・、よぉし!」「・・・・、よぉし!」と大きな声で、確認していく。
初めて、こういう場面に乗り合わせた子ども達は、珍しい催し物でも見るように無遠慮に実習 生の一挙手一投足を目で追っている。
初々しい新人さんの点呼の声に、他の乗客達も皆、ちょっと驚きながらもほほえましく見守って いた。
電車が発車してしばらくすると、新人さんは、車掌室からでて、きちんと車掌室のドアに掛けが ねをかけ、乗客に深々とお辞儀をして、客車内をゆっくりと巡回する。
「あれ、何してるの?」
日頃、検札に回る車掌さんを見かけることのない子ども達には、「ご用はございませんか?」と 言うのを聞いてもピンと来ない。
「乗り越しをする人の料金を精算したりね・・・」
近郊の電車を短距離しか利用しないことの多い子ども達にとっては、「乗り越し」すらなじみの ない言葉だったんだな。
「おかあさん、なんか、緊張するね。」
オニイがこそっと耳打ちした。
「うん、こっちまで息が詰まるね。」
「あのお兄さん、必死だね」
「新しいお仕事に就くって、大変なことなんだよね。」
オニイが、背筋を伸ばし、熱心に新人さんの姿を目で追う。
「・・・でも、なんか、いいよな。」
「うん、気持ちいいよね。」
中学生になり、自分の進路のこと、将来の仕事のこと、少し意識し始めたばかりのオニイ。
「働く」ということに、すがすがしい共感を持って、見つめることが出来るようになったようだ。
新人さんの緊張を自分の事のように共有するオニイには、確かに幼い子どもを一歩踏み出し た成長が感じられる。
そして、人前で大きな声で点呼する事や、マニュアル通りの指さし確認を、「かっこわる〜い」と 茶化してしまいそうな風潮の見られる現代、まっすぐに「一生懸命」を見つめられるオニイ。
君もなんか、ちょっとすてきだよ。
母は、君の成長がとてもまぶしかった。
「オニイ、いいもの、みちゃったね。」
「うん、『勉強』になっちゃったよね。」
終点について、私はオニイに耳打ちした。
「あの新人さんに、何か一言、声をかけてきてごらん、君の思ったこと。」
いつもなら、知らない人に声をかけることなど苦手なオニイ、意外に抵抗せずに、下車するとす ぐに車掌室の新人さんのところへ近づいていってぺこりと頭を下げた。
「なんて言ったの?」
「『ありがとう』って・・・」
最後のいっぱいいっぱいの緊張で乗客の下車の確認に忙しかった新人さんに、オニイの「あり がとう」は果たして聞こえていたのだろうか。
たとえ聞こえていたにしても、突然ひょこひょこ現れた中学生の『ありがとう』の真意が伝わると も思えない。
それでも誰かの一生懸命に共感できた「ありがとう」は、オニイにとっては大事な一言になるは ずだ。
個展会場で、父さんの作品を見る。
ここ数日、寝不足で薄汚くくたびれて帰ってくる父さんの姿はよく見ているが、父さんが作り上 げたたくさんの新作を見るのは、初めて。
「お父さん、いっぱい作ったなぁ。」
一つ一つの作品を見て歩くオニイの表情はいつになく真剣だ。
「働く」と言うことに関して、一番身近な存在である父の仕事を、今までとは違った目で見つめ始 めたオニイがいる。
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