月の輪通信 日々の想い
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2003年09月01日(月) 秋休み

とりあえず宿題もやっつけた。

上靴も通知票も持った。

制服も名札も見つかった。

よぉし、行って来い!

始業式です。



始業式の日は、子ども達も早帰りなので、どうしようかなと迷ったのだけれど、一ヶ月ぶりの七
宝焼き教室。

父さんが、「行っておいで。」と言ってくれたので、主婦の秋休みのつもりで、朝から出掛けるこ
とにした。

「お昼はラーメンが買ってあるよ。アプコのお迎え忘れないでね。晩ご飯、子ども達の誰か、作
ってくれる人、ない?」

怒濤のように言い残して、とっととお出かけモード。

だって、子どもを連れずに一人でお出かけ、ほんと久しぶりなんだもの。



教室の前に天王寺へ出て、お仕事用にアクセサリーのパーツを何種類か仕入れ。

ついでに、本屋で探していた文庫のエッセイ集を数冊購入。

Mバーガーで、簡単ランチ。

ささやかな一人の時間。

そういえば大きな本屋で読みたい本を探すのも、ファーストフード店のテーブルで、買ってきた
ばかりの文庫本のページをパラパラとめくるのも、学生時代には当たり前の一コマだったの
に、田舎の専業主婦に収まった今の私には、日常から開放された至福の時間。

街には、忙しく往来するサラリーマンやOLさん。始業式を終えた高校生。

この雑踏を自分の領地のように闊歩していた青春時代が懐かしい。

後戻りしたいとは、思わないけれど・・・



学生としてこの街を歩いていた頃、もちろん私は自分が4児の母となることも、陶器屋の奥さん
になることも、空想さえしていなかった。

そのころ私が想像していた40才の私は、今の私と全く違う。教職を目指してはいたけれど、結
婚とか育児とか、体の衰えとか老人介護とか、現実に当たり前に降りかかってくる雑事はほと
んど視界の外だった。

喫茶店で一人で飲むコーヒーや、本屋で気の向くままつぶす時間の贅沢を、あのころの私は
気付いてはいなかったのだなぁ。



Mバーガーの小さなテーブルで、パラパラ開いた文庫本は、青木玉のエッセイ集。

幸田露伴の孫、幸田文の娘でもあるこの人のエッセイに最近、熱中している。

厳格な祖父と母から日本的な美意識を幼少から徹底して教え込まれた女史の品の良いユーモ
アを含んだ文章の数々についつい唸らされる。

日常の生活のひとこまに、鋭く、しかも暖かい視線を配って、色彩を加える。さすがに訓練され
た人の文章というのは、みごとだなぁと思う。



ところで、私が学割定期でこの町へ毎日通っていた頃、何冊も何冊も文庫本を読んだ。

その中には確かに、幸田文のエッセイ集も何冊か含まれていたはずである。

露伴の娘の細やかな感性も、美しい日本語の響きもきっと味わっていたはずなのに、あのころ
の私がこの女性のエッセイに強く引かれたという記憶がない。

すぐ目の前の楽しみと、華やかな街の匂いに惹かれる根無し草の小娘の目には、日常の隙間
にキラキラ輝く瞬間をすくい取るような、生活に根付いたエッセイの魅力を味わい尽くす事は出
来なかったという事だろう。



いま、日々の日常に負われ、子ども達とのドタバタに時間を食いつぶす毎日の中で、彼女らの
随筆に強く心惹かれるのは、何故だろう。

カフェで一人で飲むアイスコーヒーの味が贅沢と思えること。

子ども連れでなく、一人で気ままな買い物の出来る時間を至福と思えること。

どれも、今の私が家族とか仕事とか、圧倒的な重さを持った日常の中にしっかりと根っこを下
ろして踏ん張っているということの裏返し。

若い頃の私にとってそれは、束縛とか不自由としか思えなかったもの。

でも今の私にとっては何より大事な生の「土台」なのだということが、ようやく判るようになってき
た。



夕方、心地よい疲労とともに帰り着いた私を迎えたのは台所で奮戦しているオニイの姿。

今日の夕飯はオニイが一人でカレーを作るという。

指南役のアユコを遠ざけて奮闘するもあっという間に、ピーラーで指を傷つけてギブアップ。

ついでにピンチヒッターのゲンまで、指を切ったようだ。

流し台は、散らかったままのタマネギやジャガイモの皮。

「オカアチャンオカアチャン!おばあちゃんちの前で、転けちゃった。」

汗まみれのアプコが駆け寄ってくる。



頑張れ、これが今の私の確かな生活。

このにぎやかな生活が、十年後、二十年後の私の宝石になるのだ。


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