月の輪通信 日々の想い
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2003年09月06日(土) 2003年9月6日(土) 焼き損ない

久しぶりに、荷造り場で仕事をしていると、玄関の方で来客の声。
義兄が応対に出たようだ。

「ハイキングのお客さんかな。」
工房は、ハイキング道の入り口にあるので、休日には通りすがりの人がやってきて、展示してある作品を見ていかれる。

近くまで来たので寄ってみたのだけれど、自分は焼き物が好きなので、こちらで焼き損じのお茶わんがあったら分けてもらえないだろうか。

その女性客は、玄関先で展示してある作品を見るより先に、そうおっしゃった。

「あ、困ったな。」
思わず手を止めて、聞き耳を立てる。
義兄はどんな風にお答えするのだろうか。



展示してある作品ではなく、工房の隅に転がっているような「焼き損じ」の作品を分けて欲しいとおっしゃる方が時々おられる。
「ここの作品をぜひとも手元に置きたいけれど、高価でなかなか手に入れられないから」と、おっしゃるのだけれど、うちでは、何らかの不具合のある作品を安価でおわけするようなことは、していない。

確かに、多くの作品を作っていると、小さな瑕疵や不具合を持って窯から出てくる作品もいくつも出てくる。
うちうちでの使用にはなんの支障もないけれど、作品として高価な値札をつけて頂くには耐えないB品。
美しい色の焼き上がりながら、小さな不具合のために涙を呑んでお蔵入りとなる作品。
実を言うと、工房の裏には、そうした「焼き損じ」がたくさん転がっている。

窯元によっては、そうしたB品を値段を落としてお内使い用にと販売するところもあると聞く。
お茶碗として、お皿としての機能は十分に持ち合わせて窯から出た作品を、値段を落としてでもどこかの食卓で生かしてやりたいという作り手の作品に対する情も十分に理解できる。
しかし、長い年月、伝統の窯元としての看板を掲げている以上、窯元の印を押す作品に対する責任として、不満足な作品を安易に外へ出すことは出来ない。

「抹茶茶わんは高価で手が届かない」
とよく言われる。
確かに、値札についているゼロの数は一塊の土くれから生み出された物としては、とんでもなく法外な物かもしれない。
しかし一個のお茶わんが値札をつけて世に出されるとき、裏側にはその一個の茶わんの価値を保つために長年培われた技術に加えて、泣く泣く闇に葬られたいくつものお茶わんがある。



「もの(作品)は、あとに残りますから。」
義兄は、「内使いにして、外へは出さないから・・・」と食い下がる女性にやんわりとお断りしている。
確かに巷の骨董店やオークションなどでも、うちの窯の作品が周り回って顔を出していることもある。

その作品の裏の印を見れば、それがどの代の作品で、どのような状態で世に出たのか大まかな事は察することが出来る。

最初に購入なさった人の手元を離れても、作品は窯から出たときの品質と制作者の刻印を確かに持ち合わせたまま、流通していくのだ。

「もの(作品)は、あと(後世)に残る。」
主人や義兄や義父が作り、私たちが梱包して毎日送り出している作品は、もしかしたらわたしたちがいなくなった後までも、「吉向」の作として、お茶席に置かれ、評価される。
その厳しさを、義兄は誇りを持って「あとに残る」と表現したのだろうか。

「焼き損じ」をお分けしないのは、意地悪やら吝嗇ではなく、いま、どこかのお客様の手の中にある多くの過去の作品、そして、これから生み出される未来の作品への責任なのだ。

「・・・大変失礼な事を申しました。」
女性客は義兄のお断りに、納得してお帰りになった。

今、私が包装しているのは薄青地に流水の彫り込みのある小振りのお菓子皿。
茶道の先生が御祝いの席のお配り物になさるのだそうだ。

同じ土、同じ釉薬から生まれながら、微妙に表情の違う百枚あまりのお菓子皿は、窯元の刻印とともに見も知らぬ人の手へと散らばっていく。
その一つ一つのご縁を思いやりながら、再び、包装の仕事に立ち戻る。

今日、50組の菓子皿の包装を終えた。




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